8 道標
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 たとえ魔物が現れようとも、最愛の娘が塞ぎ込んでいようとも、日常というのはつつがなく繰り返されるものだ。朝早くから忙しく立ち働きながら、マーサはそんなことを思った。

 まだ年若い時分に、マーサはロディオの元に嫁いできた。彼の家――マグニス家は代々考古学者を輩出している家系で、遺跡の近くにあるリウムの街に於いて、古くから名士と言われる家柄だった。街の郊外に屋敷を構え、その気になれば使用人を雇えるような――そんな家だったが、マーサは家仕事の一切を、一人で切り盛りしていた。

 ちょうど今は、洗濯物を干しているところだった。天気は晴れ。風が穏やかに吹き抜ける、いわゆる洗濯日和だった。眩い青色の空の下、マーサは深呼吸する。それを何度か繰り返した後、屋敷のほうを振り返り、最終的にため息をついた。邸内に閉じこもったままの者たちの心の内を憂えて。

 今、中にいるのはロディオとランディの二人だけだった。もちろん、それぞれが別室でそれぞれの思いに耽っているのだが――昨夜の会談から目を合わせようとしない二人の様子を見て、マーサは朝方からため息ばかりついている。はっきり言って、空気が悪いのだ。こちらまで鬱々とした気分になりそうで、家にいる時間を少しでも減らそうと、マーサはいつもの倍の時間をかけて洗濯物を片付けていた。しかし、それもじきに終わってしまいそうだった。昼食の準備の前に少し休憩を入れたいところだが、あの居心地の悪さの中で安らげるかどうかと言われると、甚だ疑問だ。

 空気の悪さの主な原因は、ランディの抱く疑念だ。シーナや、マーサたち夫婦に対する不信感。それを彼は隠すことなく、こちらにぶつけてきている。彼の本来の立場から考えたら、それはごく当然の態度ではあるのだが――少しばかり神経質すぎるような気がするのは、自分が楽天的な性分だからであろうか。



 ――不真面目に見えて、意外に心配性なのよ。本人に自覚はないのでしょうけどね。



 この街に滞在した折に、かの姫君が呆れた口調で彼について話してくれたことを思い出した。幼なじみなのだと、面映ゆそうな表情で語ってくれたあの姫も、今は即位して女王としての務めを立派に果たしている。その彼女の以前からの捜し人が、あの若者その人で。

 ――そろそろ頃合いかしらね。

 胸中でひとりごち、服の隠しに手を当てた。かの姫から内密に頼まれていた用事。それをそろそろ果たさなければならない。幸いと言うべきか、シーナは朝早くから散歩に出ていたし、アレスも先ほど『街へ行く』と出ていったばかりだ。ロディオには知られても構わないことだから、これ以上わざわざ人払いの手間を掛ける必要もない。

 マーサは再び深く息をつくと、山積みになっていた洗濯物の最後の一枚を広げた。軽く叩いて皺を伸ばし、風に揺れる洗濯物の群れにあらためて目を向ける。そして満足気に頷いてから、マーサは表情を引き締めた。

「――さて、と」

 呟いて、空になった籠を抱え、踵を返す。そしてマーサは僅かばかり眉根を寄せながら、静かな足取りで邸内へと向かうのだった。今もなお、頑なに疑いを向ける青年の心を解くために。


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