5 覚悟 しおりを挟むしおりから読む目次へ 漆黒の、忌まわしいだけの存在は微動だにせず、こちらを見つめていた。ねっとりとした、粘着質な、愉悦の色を多分に含んだ視線で。椎菜はそれから逃れることもせず、虚ろな表情で魔物を見返していた。 ――あのときと、同じだ。 その言葉ばかり、頭の中で繰り返される。 断わる、と――きっぱりと魔物の要求を撥ね付けたグレイは、幼い椎菜をその背に隠した。そして、言った。大丈夫だと。――俺は大丈夫だから、先に行け。何、すぐに追いつくさ。街まで行けば大丈夫だ。きっとロディオも戻ってるはずだ。さあ、早く。 そう言って――大好きな師匠は椎菜の背を押した。だけど、椎菜は動けなかった。気づいてしまったから。いつも豪快に笑う、おおらかなその声に焦りの色が滲んでいたことに。本当に、ほんの少しだったけれど、椎菜は気づいてしまった。だから嫌だと、大声で喚いて。取り乱して、側にいた誰かの手を振りほどいて、グレイと一緒に残るんだと――。 「――ナ! シーナ!!」 突然、意識に割り込んできた声に椎菜は身を竦めた。両目を見開いたまま、ゆっくりと視線を巡らす。 「ア、レス……」 声の主は、さっきまで椎菜を背後に庇っていてくれた青年だった。彼は椎菜と目が合うと一瞬だけ安堵して、すぐに表情を引き締める。そして落ち着けと言わんばかりに、椎菜の肩を軽く叩いた。 「ごめん……」 その仕草に、謝罪の言葉が口から零れる。アレスはそんな彼女を一瞥すると、再び顔を魔物がいるほうに向けて言った。 「行ってくれ」 端的な科白に、椎菜は身を硬くした。返事は出来なかった。代わりに、ゆっくりとまた魔物に視線を移す。 魔物は動かない。愉しげに表情を歪めて、こちらを見ているだけだ。多分、あちらには関係ないのだろう。これから椎菜たちがどう動こうが、たいした妨げにはならないと思っているのだ。 「シーナ」 こちらを見ないままに、アレスが重ねて言った。 「行ってくれ。大丈夫だから」 ――『大丈夫』? 「……何が?」 アレスの言葉を反芻して、椎菜は彼の腕を掴んだ。アレスは驚いた様子で見下ろしてくる。 「シーナ?」 「『大丈夫』なんて嘘だ!」 勢いよく、かぶりを振った。髪が乱れるのも構わない。アレスの腕を掴んだ手が震える。その手を強く握りしめて、椎菜は言った。悲鳴みたいな、血を吐きだすような叫び声で。 「グレイも……っ、みんな、あのときそう言ったけど! 誰も帰ってこなかった!」 同じ馬車に乗ったおじさんも、お菓子をくれたおばさんも。仕事の傍らに遺跡の話を聞かせてくれた若者も。皆みんな、居なくなってしまった。助かったのは、ほんの一握りの人間だけで。 大丈夫だから、先に行きなさい。逃げなさい。街まで走りなさい。皆、そう言って、椎菜を守ってくれたけど。 |