4 襲来 しおりを挟むしおりから読む目次へ 『まだ、この地に残っていたか。愛しき我が娘よ』 脳内に直接響くようなその声にも、聞き覚えがあった。それが更に椎菜の恐怖を掻き立てる。悲鳴をあげてしまうかもしれない、そう思った矢先、それは何とか抑えられた。 傍らの――アレスの気配が変わったからだ。凄まじい怒気が、彼の身体から立ち上っている。今にも、あの魔物に斬りかかんばかりに。 アレスが身体をずらした。完全に、椎菜を自分の背に隠す。庇うというよりは、椎菜に魔物の姿を見せまいとするような――そんな動きだった。 少しだけ平静を取り戻して、椎菜はアレスの背中を見つめた。そして、機会を窺う。魔物に背を向けて街へ走り出す、一瞬の好機を。 だが、魔物にそんなものを与えるつもりはないようだ。徐々に距離を詰めながら、魔物はアレスに向けて言い放った。 『どけ、人間。俺が欲しいのは、その娘だけだ。言う通りにするなら、今だけは見逃してやってもいい』 「断わる」 すげなく、アレスが応えた。それを聞いて椎菜は、同じだ、と思った。九年前、グレイと二人で――この魔物に、追い詰められたときと。 今、目の前にいるのは――あのときと同じ魔物だった。間違いない。姿形も、響く声も、あの日からずっと焼きついている。 魔物は、あのときも椎菜を欲しがった。『愛しき我が娘』と、呼んでいた。そしてグレイに取り引きを持ちかけたのだ。これ以上の殺戮をしない代わりに、椎菜を差し出せと。 グレイは応じなかった。今のアレスのように魔物の要求を突っぱねて、そして。 「や、だ……っ」 あの日の光景が、またよみがえってきた。震えが止まらない。椎菜は自身の身体をかき抱いて、その場に崩れ落ちる。 「シーナ!」 アレスが振り返り、駆け寄った。青灰色の瞳が心配そうに、こちらを見る。だが、椎菜は何も答えられなかった。 ――どうして? ――どうして、またこいつが……? ――確かにあのとき、『消したはず』なのに! 呻くように思いながら、椎菜は虚ろな視線を魔物に向けた。目が合って――魔物は笑ったようだった。おぞましいほど、ひどく、嬉しそうに。 『さぁ、こちらに来るといい』 魔物は彼女を優しく呼び寄せた。 『愛しき娘よ。あのときと同じ絶望を、味わいたくはないだろう……?』 ねっとりと、身体にまとわりつくようなその声を、椎菜は絶望的な気分で聞いた――。 第四話『襲来』了 |