午前2時10分45秒。
 夜の帳が下り、一般住宅街なら寝静まっているだろう時間帯も、眠ることを知らないこの街は相変わらず騒々しいことこの上ない。

 X区X町X駅前交番。
 俺こと、近藤将志の勤務先は煌々と色取り取りのネオン看板が並ぶ歓楽街に位置する。出動要請を受けても、直ぐに現場に駆けつけられるよう、常時交番の入口は開けっ放しだ。氷雨もチラつくこの寒空の中、それは拷問に等しい行為だ。
 未成年の深夜徘徊、窃盗、酔っ払い同士の喧嘩など、大小限らず日々事件が耐えることはなく、流血沙汰など日常茶飯事と化しているこの地区に配属された俺は紛れもなく不運としか言い表しようがなかった。

「駅前で路上演奏を行ってる奴がいる。耳障りだからとっとと止めさせてくれ!」

 今日も普段と変わらず、やたら態度のでかい通報が入る。しかし、それは依りにもよって先輩がトイレに行ったっきり一行に戻ってこない時に受けたものだった…──



 一応、X区では無許可の路上ライブ行為は禁止だ。道路交通法違反に値する。
 だが、無許可で路上ライブを行う若者なんざ、今も昔も変わらず腐るほどいるのだ。
 それなのに、一々補導なんてしていられないだろ。
 毎回、通報があったとしても常習犯でも無い限り精々、厳重注意程度で済ませていた。
 それを怠慢だと非難する者もいる。けれど、仕方ないだろ。他にどうしろっていうんだ?
 注意されただけで頭にきて、平気で人を殺す馬鹿もいる、そんな狂ったご時世だ。
 匿名の通報なんて、対象に怨まれるかも知れないという心理が働いて本名を出さないんだろう。それか、面倒くさいのか。
 発砲許可なんて四六時中、人で溢れかえるこんな街中で下りるはずがない。
 丸腰と変わらない状態で毎回、色々な対象者と素顔で向き合っている。
 当たり前だが、俺は特別じゃない、ただの人間だ。勿論、馬鹿も通報者も。刺されたら痛いし、そのまま放置されたら死ぬ。
 それじゃあ、他との違いは何なのか? 簡単だ。
 もし、俺が勤務中に死んだとしたら、それは職務を全うしたということだ。そんでニュースに一瞬名前が出て、終わり。名誉な事なんだろうが、当人が死んでたら嬉しくもなんともない。
 俺だって、根を詰めすぎて死ぬなんて真っ平ゴメンだ。ただの犬死にじゃないか。
 死なない程度にそれなりに頑張る、それじゃあ世間は許してはくれないのだろうか?

「あいつか?」

 通報通り、駅前の広場に急ぐと、人集りがあり、その中心には楽器を携えたガキが一人立っていた。
 ガキって言っても上背は無くて、ひょろっとしているから、という理由で決め付けた、ただの当てカンだ。後ろ姿何だからしょうがないだろう。男か女も分かりやしない。
 そいつは白いファー付きのコートを羽織っており、後ろ姿を見ていると、まるで雪だるまのようだった。
 見たところ、雪だるまの他に楽器を持っている奴が居ない。単独ライブのようだ。ガキのくせに、生意気な。

「おい、そこの!」

 寒いこともあって、やや荒々しげに広場に向かって呼び掛ける。すると、雪だるまは、俺の声に気付いたのか。ゆっくりと振り返った。

「っ!」

 フードの中にあった顔を見た途端、俺は息を飲んだ。
 大袈裟かも知れないが、一瞬心臓が止まったかと思ったくらいだ。俺にとって、それくらいの、衝撃だった。交番前に突っ立って、人の顔なんざ飽きる程、見てきたがここまで整った顔を見るのは初めてだ。
 一点の濁りのない、まるで、まだ足跡ひとつ残していない雪原のような、不思議な雰囲気を持った奴だった。

 俺が来た時には丁度演奏が終わった後だったらしい。
 立ち聞きしていた周囲の連中は、雪だるまに拍手と賞賛を送り、小銭を投げ込んでいた。

「ねぇっ! ヤバいよ」

 漸く見物客の一人である少女がこちらに気付くと、仲間に目配せする。
 防寒のコートを上から羽織っているが、中に着ている制服のせいで、一目で俺が警官だと分かったのだろう。容赦なく睨みつけてくる若者グループまでいた。
 これだから、滅多に補導現場になんて立ち会いたくないのだ。
 酔っ払いやガキ共には税金泥棒と罵られてるけど、これが仕事なんだから勘弁して貰いたい。
 心の葛藤を目で訴えるが、周囲の若者に伝わるはずもなく完全に悪者扱いだ。

「はい、はい。ちょっとそこ通してねー。邪魔だから」

 視線が痛い。早いとこ注意してさっさと帰るに限る。

「んん?」

 雑踏を掻き分け、中心にいるガキの前に立った。しかし、ふと何気なく楽器ケースを覗けば、七、八万円相当の金額が入っていたのだ。
 相手は未成年、時間帯も時間帯だ。演奏を聴いていた訳ではないが素人のガキが稼ぐにしては売り上げ金が尋常ではない。
 流石に、俺も注意するだけでは済ませてあげられないだろう。

「ちょーっと、交番までご同行願いますかね?」

 努めて優しいニュアンスで言った筈なのに。その一言で一気に周りのブーイングが強まる。
 喧しい。俺だって面倒くせーんだよ。都心で路上ライブなんざガキが格好つけてんじゃねぇーよ。せめて地元近辺の駅前で我慢しとけよ。クソガキが。俺の仕事を増やすな。
 内心、そう毒突くと、周囲の罵倒に耐えながらガキを交番まで連れていった。大人しく、手を引かれて付いて来てくれたので、こりゃあ早く終わりそうだと踏んでいた筈だったのだが。

「……」

 ところが、このガキときたら、交番に着いて、対面越しに座った途端、さっきから一向に口を開こうとしねぇ。床の方ばっか見て、顔も合わせようとしねぇし。

「いい度胸じゃねーか」

 おかげでガキの機嫌をとろうと差し出したカツ丼ならぬ、カップラーメンはすっかり麺が伸びきってしまった。畜生、俺の夜食だったんだぞ、ソレ。

 改めて、身をすくめるようにしてパイプイスに座っている、雪だるまを見下ろす。
 髪も肌も、何もかも抜け落ちてしまったような白さ。
 中性的な顔立ちのせいで、性別は全く判別出来ない。

「本物、だよな」

 デスク上にある楽器に刻まれたロゴを指でなぞる。
 それは、俺でも分かるような某有名楽器メーカーの物だった。
 楽器に関しては殆ど無知な俺だが、ちゃんとした楽器なら数十万近くすることくらいは知っている。
 この街には色々な奴がいる。深夜の駅前で迷惑を顧みず無我夢中に下手くそなギターを演奏する若者、怪しい紙の人形を高額で売りつけるオッサン。
 路上ライブ、路上パフォーマンスなんてのは聞いたことはあるけれど。

「バイオリン、か」

 路上バイオリニストはこの日までお目にかかったことはなかった。

「おい……こら。いつまで黙ってんだ。いい加減、名前くらい吐いたらどうだ」

 脅すように荒々しく、デスクを叩いたりしてみるが、ビクリと肩を揺らすだけで効果はない。ええい。じれったい。

「ったくよ。人と話す時は、目を見ろって母ちゃんから教わんなかったのか?」
 ついに堪えきれ無くなった俺は、雪だるまの肩に掴み掛かった。

「っ!」
「俺の目をちゃんと正面から見ろ。目線を反らすな。このうざったいフードも取る!」

 邪魔なフードを外し、正面から睨み付けた。すると、雪だるまの顔はみるみるうちに、赤く染まり、金魚のように口をパクパクさせている。しかし、声は出ていない。

 もしかして、こいつ。

「お前、口が……聞けないのか?」

 顔から手を外し、戸惑いがちに尋ねると、雪だるまは恥ずかしそうに、目線を反らし、コクンと頷いた。

「あー……そりゃ気付かなくって悪かったわ。まぁ、喋れねぇならしょーがねーな」

 話せない原因が分かったが、これじゃあ、会話成立しない。さて、どうしたものか。視線を落とすと不意に、日本語が話せないのに道を尋ねてくる外国人観光客のことを思い出した。

「文字なら、書けるな?」

 競馬新聞に挟んでいたペンを抜き取り、メモ帳に名前を書いてみろと促す。雪だるまはペンを受け取ると、素直に己の名前を書き始めた。

「書けたか?」

 手渡されたメモ用紙の中には、丸みを帯びた字で、きちんと名前が書かれていた。可愛らしい書体とは裏腹に、かなりインパクトのあるゴツい名前だったが。

「鬼河原虎白か。見かけによらず、スッゲー名前だな。お前」

 容姿と名前のギャップを指摘してやると、傷ついたのか、先程と同じように俯いてしまう。

「べ、別に変って言ってる訳じゃねぇよ。男らしくって良い名前じゃねーか」

 慌ててフォローを入れてやると、ぱっと顔をあげて、花が咲いたように、ふんわりと微笑む。

「っ、あ、あ、あと親にも連絡しておけ! 一応」

 なんか、調子狂うな。こんくらいの年代のガキだと、変に知恵ついてて、補導なんかしたら、逆ギレしたり、何かしら糞生意気な態度とりそうなのに。この虎白という少年には一切その兆候が見られそうにない。

「俺は近藤将志って言うんだ。ムサシじゃないぞ。マ、サ、シだ」

 一文字間違えると、フルネームで下ネタになりかねないので、メモ帳に一回りデカい字で自分の名前を書き足す。中学高校散々からかわれたけどな。「一人専用」とかムカつくあだ名つけられて。

「将軍の志って書いて将志。中々強そうだろ?」

 そう尋ねると、虎白は嬉しそうに頷いた。
 うっ、可愛い。でもそれだけじゃなくて、なんつーか、仕草さのひとつひとつが、上品というか、おしとやか? というか。たかだか、携帯電話でメールを打つ時さえも、目を奪われるものがある。睫毛もスッゲー長いしなぁ。
 思わずホントに男だよな? とまじまじと見つめていると、どうかしたのかと聞きたいのか。まるで小動物のような仕草で小首を傾げている。なに、これ。この超可愛い生き物。

 今更交番の隅に置いてあったボロストーブの力が発揮されたんだろうか。身体中の水分が一気に抜けてしまったかのように熱かった。



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