訓練が終わり、班の子たちと夕飯を食べてお風呂にも入り、あとは寝るだけとなった午後十一時。
私は一枚の書類を手に扉の前で佇み途方に暮れていた。今日中にアルミンに提出してサインを貰わなければならない書類の存在をすっかり忘れていたのだ。
今朝あんな喧嘩をしてしまった手前顔を合わせるのはまだ少し気まずい。と言っても喧嘩というより一方的に私が拗ねているだけだけど。自分でも面倒くさい奴だな、と心底思う。なのに何でアルミンはこんな奴と十年も一緒にいてくれているんだろう。不思議で仕方ない。
だけど部屋の前でこうしてぐずぐずしてたってどうしようもないから、意を決して扉をノックすると「どうぞ」といつも通りの声が聞こえた。
「失礼します」
普段は言わない言葉を口にして部屋の中に入る。他人行儀なのは私のほんの些細な意地だ。ああほら、めんどくさい奴。自己嫌悪でいっぱいになりながらも執務机について仕事をしていたらしいアルミンを見つめた。アルミンの方も微かに口元に笑みを浮かべながら私をじっと見ているけど、その真意はよく分からない。
「この書類にサインを頂きたいのですが」
右手に持った書類を差し出すとアルミンは困ったように言った。
「…それじゃ届かないよ」
部屋に入ってすぐの所で窓に近い場所にある机についているアルミンに言ったってそりゃ届くはずがない。もっと近くに来てくれないと、と苦笑したアルミンの言葉に素直に従って机の目の前まで歩き、書類を渡した。
「お願いします」
「うん」
署名欄にすらすらと自分の名前を書いたアルミンは、私に書類を差し出した。受け取ろうと手のひらを向けたらそれはすい、と上に逃げたので思わずびっくりして彼の顔を凝視する。書類を自分の顔と同じくらいの高さに掲げてひらひらさせながらアルミンは笑みを浮かべたまま問い掛けてきた。
「まだ怒ってる?」
怒ってる、とはちょっと違うと思う。別にアルミンは悪くない。後輩とデートするのはどうかと思うけど。
ただ私が拗ねて嫉妬してるだけだ。それも自分に自信がないから不安になってしまうっていうかっこ悪い理由で。
アルミンは悪くないのにこのモヤモヤをアルミンにぶつけてしまう矛盾は見当違いだって自分でもよく分かってる。本当に面倒な性格だ。愛想尽かされても文句は言えない。
「…怒ってるって言うか…自分が情けないってだけでアルミンは悪くないの。気にしないで」
「気にするよ。ミリアにそんな態度取られてたら仕事なんか手に付かなそうだ」
「……」
そんなことを言われたらアルミーン!なんて言いながら飛び付きたくなるけどぐっと堪える。自分で言うのもどうかと思うけど、アルミンは私に対してとことん甘いと思う。
「どうしたら許してくれる?」
「…許すも何も…別にアルミンは悪くないし…。私が勝手に不安になってるだけだから」
「不安って?」
「……アルミンが、私より若くて可愛い子のところに行っちゃうかもしれないっていう不安」
…言ってしまった。
アルミンのことだからまぁ私の思っていることなんてお見通しなのかもしれないけど、口に出すとなるととんでもなく恥ずかしくてみっともないことを言ってしまったんじゃないだろうか。
アルミンをちらりと見ると、目をぱちぱち瞬かせてからおもむろに自分の座っていた椅子を引いて、両手を緩く広げた。
「おいで」
今度は私が目を丸くした。
軽く混乱しながら数秒固まって、のろのろと足を踏み出す。結局は私だってアルミンに甘いんだ。
割と大きい机を回り込んで二人の前に隔たりがなくなると、目の前のアルミンは私の腕を引いてそのまま自分の方に引き寄せた。ぐらりと傾いた体は座っているアルミンの腕の中にすんなりと閉じ込められる。
「…どうしたら信じてくれる?」
「…何を?」
「僕は昔からミリアしか見てないのに」
思わず顔が熱くなる。きっとほっぺたは真っ赤になってる。本当に?なんて聞かなくてもそれぐらい、本当だってことは分かってる。何せ十年も一緒にいるんだから。
ああそっか、アルミンの方は私のことをとても大事に思ってくれてるのに、それを正面から受け取って信じることが出来ないでいた私はなんて傲慢でひどい奴なんだ。
「…私も昔からアルミンのことしか見てない」
「うん。知ってる」
少しだけ体を離してアルミンの顔を見つめたら楽しそうにくすくす笑ってた。叶わないなぁと思う。
「でもアルミン…」
「ん?」
「…可愛い後輩とデートするんでしょ」
胸でつっかえていたことをぼそぼそと口にする。アルミンは優しいし、その気がなくても誘われたらきっと一緒にお出掛けくらいしてあげるのかもしれない。
でもそんなのやっぱりやだ、と次に発せられる言葉を内心びくびくしながら待っていたらさも当然だとでも言うようにあっさりした答えが返ってきた。
「あれはジャンの言い方が悪い。それに乗っかった僕も悪いけど」
「…え?」
「熱心な子たちに新しい陣形の考案や対策法について聞いて欲しいって言われたんだ。普段は忙しくて休みの日ぐらいしかなかなか時間を取ってあげられないからね」
「え」
……ということはなんですか。
ジャンの言った一言にまんまと引っかかって私が勝手に不安になってただけってわけですか。
確かにジャンは「後輩に次の休みは暇じゃないか聞かれてなかったか」としか言ってない。完全に私の早とちりだ。
「……じゃあしないの、デート」
「うん」
「…もし本当に誰かにデートのお誘いされたらどうするの」
「ミリアがいるのにそんなことするわけないだろ」
さも当然といった風に言ってのけたアルミンに脱力した。もちろん嬉しい気持ちの方が勝っているけど。私って本当に突っ走り気味というか間抜けというか、成長しないなと自分でも思う。
「嫉妬した?」
「してない」
「正直に言うと?」
「…嫉妬しました」
小さくそう言えばアルミンは満足気に笑いながら「よく出来ました」と私の頭を撫でた。こうやって子供扱いされるのも正直嫌ではないから、私はもう完全に目の前でにこにこしているこの分隊長様の手中にある。逃げられるわけがない。逃げようとも思わないけど。
自ら檻に戻る愚か者
十年経っても叶いません