その日もいつもと変わらない一日になるはずだった。
唯一違ったことと言えばその日は調査兵団の壁外調査の日で、朝からお母さんが少しそわそわしていたのを覚えている。私のお父さんは調査兵だったから心配していたんだろう。勿論私もすごく心配だった。壁の外は人間を食らう巨人がたくさんいる危険な場所。お父さんも巨人に食べられてしまうんじゃないかといつも不安だった。でもお父さんは毎回無事に帰って来た。父さんは熟練の兵士だからな、と得意気になって笑っていた顔を思い出す。

早朝、お父さんを見送るためにお母さんと一緒に壁の近くまでやって来た。暗緑色のマントに自由の翼を背負った調査兵100人程が緊張した面持ちで開閉扉が開くのを待っている。お父さんは私とお母さんの姿を見つけると心配ない、と言うように笑った。
それから程なくして扉が開かれ、団長の掛け声と共に兵士たちは馬を走らせ土埃を上げながら壁の外へと消えて行った。素早く手際良く閉ざされた扉を見つめているとお母さんが帰ろうか、と言ったので素直に頷く。あとは無事を祈ることしか出来ない。



帰って来て掃除をしてから昼ご飯を食べ、洗濯の手伝いをした。途中でお母さんがそろそろ石鹸がなくなりそうだとぼやいていたからおつかいに出た。
店に向かう途中、アルミンに会った。約束をしているわけでもないのによく会うなと思ったのを覚えている。家が近所だから不思議はないのだけれど。何をしているのか聞いたらこれからエレンとミカサと会うんだと言っていた。いつものようにほっぺたをつねりながらからかうと、やめてよ、と少し泣きそうになっていたっけ。男の子なのに泣き虫だなぁ、なんて思った。

おつかいから帰って来て洗濯を終わらせて、ベッドに寝転がってうとうとしていたらいつの間にか眠ってしまっていたらしく、遠くでけたたましく鳴り響く鐘の音で目が覚めた。この音を聞くといつもぎくりとする。調査兵団が帰って来た時に鳴らす音だから。お父さんは大丈夫だなんて言っていたけれど、生きて帰ってこられる保証なんてどこにもないことを知っていた。
私とお母さんは調査兵団が帰って来ても迎えに行くことはしなかった。どうして迎えに行かないのか、無事にお父さんが帰って来たかどうか心配じゃないのかとお母さんに尋ねたら、調査兵団が帰って来たところを野次馬のように見に行くよりも、帰って来ることを信じてお父さんの好物でも作って家を守りながら待っている方が良いでしょう?そして帰って来た時にちゃんとおかえりなさいを言いたいの、と少し照れた様子で話してくれたのを覚えている。
いつまでも初々しいお母さんとお父さんの関係は素敵だなと思っていた。いつか私もそんな家庭が築けたらいいな、なんてこっそり思ったりして。

そろそろお母さんが夕飯の支度を始める頃だし手伝おうと二階の自室から一階に降りようとしたところで、腹の底から響くような大きな音と振動が起こった。最初は地震かと思った。家全体が揺れて体が一瞬浮き上がり、その衝撃で転び肘を床にぶつけてしまった。ぶつけたところをさすっているとさっきのよりも更に大きな音と揺れ。何かが壊れるような、崩れるような嫌な音。心臓がばくばくしている。一体何が起きたのか。その場から動けずにいると下からお母さんの焦った声が聞こえた。

「モニカ!急いでこっちに来なさい!」

訳も分からずふらふらと立ち上がり、一階に降りると血相を変えたお母さんが私の腕を掴んで家の外へと飛び出した。
そこで見た風景は地獄のようだった。
大きな岩のような瓦礫があちこちに転がり、その下には人が挟まっている。真っ赤な池が出来ている。その人を引っ張り出そうとしている人。その側で泣いている子供。悲鳴を上げながら他の人を押し退けて逃げ惑っている人。これはなんだろう。何が起きたんだろう。お母さんに腕を引かれながら走る。一体どこへ向かうのか。
近所のおじさんが叫んでいる。「壁が壊された!」と。壁が壊されたとはどういうことだろう。あの壁は誰にも…例え巨人であっても壊せないんじゃなかったか。
一際大きい悲鳴が聞こえてそちらに目を向けると、薄気味悪い笑顔を浮かべた大きな人がズシンズシンと地響きのような足音を立てながらこちらに近付いて来ていた。服は着ていない。口元と膨れた腹には真っ赤な血がこびりついている。あれは人じゃない、巨人だーーー。理解したところで為す術もなくどうしようもない。気が付けば別の巨人が進行方向にも立っていた。逃げ惑う人々をまるで玩具で遊ぶかのように掴み上げ大きな口の中に放り込んでいく。骨の折れる音や肉が裂ける音が響く。
こんなの、どうしようもない。どうしたって勝てるわけがない。お父さんは壁外に行く度にあんなのを相手にしてるの?
思わず立ち止まるとお母さんが「走って!」と叱咤した。船に乗って壁の中に行けば大丈夫だから、と私を安心させるようにぎこちなく口角を上げて微笑んだ。一つ頷いてまた走り出す。





どのくらい走っただろうか。
息切れがするし心臓が痛いけど立ち止まったら巨人に掴まれて死ぬかもしれないと頭の中で自分に言い聞かせて必死に足を動かした。ふと辺りに影が落ちて周りが暗くなる。何だろうと見上げると建物の影からにたりと不気味な表情を浮かべた巨人が私たちを見下ろしていた。足が竦む。気味の悪い暗い瞳をじっと見つめることしか出来ない。太く忌まわしい腕がこちらに伸びて来てああ死ぬのかと直感した。だけど私の体は後ろに突き飛ばされ、その衝撃で尻もちをついた。何が起きたのかと顔を上げると巨人に掴まれたお母さんの姿が目に入る。私を庇ったせいでお母さんが巨人に捕まった。

「早く逃げて!!」

誰か助けて。
お父さん、お母さんを助けて。
お父さんはいつも壁の外で巨人を倒しているんでしょう。それなら早くお母さんを食べようとしてるこいつを倒してよ。ねぇ、お父さん、どこにいるの。
巨人は薄気味悪く笑ったまま大きく口を開けた。
涙が溢れて止まらない。声も出ない。足も震えている。

「生き延びなさい!モニカ!」

お母さんの体が真っ黒な口の中に消える。
血飛沫が辺りに飛び散る。
パキパキと骨の折れる音が耳にこびりついている。
がくがくと情けなく嗤う膝に力を入れて立ち上がり、走り出した。無理矢理足を動かして振り返らずに走った。死にたくない。でもお母さんは死んだ。涙が視界を覆う。どうしてこんなことになったんだろう。全部巨人のせいだ。
お母さんが私を庇って食われてしまった喪失感と、また巨人に襲われるかもしれない恐怖に怯えながらひたすら走った。だんだん船着き場が見えてきて、大勢の人が船に乗ろうと並んでいる。その光景を見た瞬間、ふっと体の力が抜けてそのまま気を失った。



********************



次に気が付いた時はそれから3日が経っていた。
目を覚ました場所はウォール・ローゼの避難民収容所の一室で、兵士が気を失って倒れていた私を見つけ船に乗せてくれたらしい。
あの出来事は夢ではなかったんだと実感した。
お母さんは巨人に食べられて死んでしまった。あの光景を思い出す度に後悔や怒り、何も出来なかった自分自身の不甲斐なさに押し潰されそうになる。泣かないようにぐっと歯を食いしばって堪えた。泣きたい時でも頑張って堪えて我慢した方がもっと強くなれるんだよ。それでも泣きたい時は一人で泣くよりも信頼出来る人の側で思いっきり泣きなさい。昔からお母さんが言っていた。
信頼出来る人なんてここにはいない。お父さんは何処だろう。
徐々にマリアからの避難民が開拓地に移り始めた頃、私は駐屯兵団の協力を得て調査兵団に連絡を取ってもらっていた。お父さんに私の無事を伝えるために。お母さんのことを話すのは、とても辛いけれど。
だけど返って来たのはお父さんはあの日の壁外調査で死んでしまったというあっけない知らせだけだった。頭の中が真っ白になった。だって今までちゃんと帰って来てたのに。大丈夫だって言ってたのに。なのに何で。肝心な時に、いて欲しかった時にいなくなってしまうなんて。調査兵団だったから、壁の外になんて行くから死んでしまったんだ。
一日のうち両親を壁の中と外で失った。
自分だけが可哀想で、特別だと思ってるわけじゃない。
あの日死んでしまった人はたくさんいるし私のように家族を亡くした人も大勢いる。生き残っただけで幸せだと思うべきだろう。とても幸せだなんて思えなかったけれど。



その後身寄りのない私はトロスト区の親戚の家に預けられた。私のお父さんの兄、つまり叔父の家族。
叔父、奥さん、息子、娘の家族で、前は何度か遊びに来たことがあるけれど、その時とはまるで違う家族の態度に最初のうちは戸惑った。いないものとして扱われ、滅多に話し掛けられることもなかったし寝床は物置の中だった。
マリアが放棄され、食料が極端に不足している中で食い扶持が増えたわけだから仕方のないことだったんだと思う。
元々叔父は自分の弟…私のお父さんが調査兵団に所属していることも気に入らなかったようだし、シガンシナ区なんて囮でしかない危険な所に住んでいるからこんなことに…と話しているのも聞いた。

背中辺りまであった髪は、そこの娘に悪戯をされて少し焦がしてしまったのでばっさりと切ってしまった。長い髪は密かにお気に入りだったから少し残念だったけど、別に困ることでもなかったからあまり気にしないようにした。

二年間、厄介者扱いをされながら生活していたけれど別に悲しいとか悔しいという感情はなかった。むしろだんだん無気力になってきて、どうでもよくなっていた。どうしてこんな環境で生きているんだろうと思ったこともある。私にはもう何も残ってないわけだし、ここにいても迷惑をかけているだけだし、死んでしまってもいいんじゃないかと。でも最期にお母さんが言った生き延びなさい、という言葉を思い出すと死ぬ気にはなれなかった。お母さんは私を生かすために死んだんだから。

12歳になる年にすぐ兵士にさせられた。私の意思なんてそこには存在しなかったけれど、この家族から離れることが出来るのは嬉しかった。勿論食事や物置とはいえ寝床も与えてくれたわけだから感謝もしているけれど。
今までお世話になった分のお金を返したら、もう会うこともないと思う。

そうして104期訓練兵になって今に至る。
全て話し終わるとなんだか長い夢でも語っていたかのように感じた。でもそれは紛れもない現実で、実際に私が経験したことだ。
アルミンは隣りで静かに聞いてくれていた。

「…私だけべらべら喋っちゃってごめんね」
「いや、何て言うか上手く言えないけど…大変だったんだね」
「今まではあんまり話したくなかったけど、いざ話しちゃうとなんだかすっきりしちゃった。本当は誰かに聞いて欲しかったのかも」

可哀想だとか、同情して欲しかったわけじゃない。私の他にも同じような経験をした人はたくさんいる。エレンとミカサだってそうだ。アルミンだっておじいさんを亡くした。だからと言って傷の舐め合いをしたかったわけでもない。ただ今まで内に溜めていたものを吐き出したかっただけなのかもしれない。

「モニカがあの日以降どうしてたのか気になってたから聞けて良かったよ。話してくれてありがとう」

少しだけ眉を寄せて控えめな笑顔でそう言ったアルミンを見たら、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。今まで散々からかっていじめて来たって言うのに、アルミンはとても優しい。

「わっ、モニカ?」

あわあわと慌て始めたアルミンの反応を見て、自分がぼろぼろと涙を流していることに気が付いた。
今まで堪えてきたものが堰を切ったように溢れて止まらない。
人前でこんなに大泣きするなんていつぶりだろう。
私が泣いている間、アルミンは何をするでもなくただ静かに隣りにいてくれた。
それだけで随分救われたような気がした。



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