非常に腹立たしい状況に、煙草の一本や二本や三本吸いたいところだ。
けれどそういうわけにもいかない。まず持つことができない。普段からよく手足を失くすことがある俺にとって、持てないというのはそれほど珍しいことではないのだが、それもまた話が違う。
「これはこれは」
愉快気に肩を揺らした声の主の脛辺りを思い切り殴った。
暴言の一つや二つ、いや五つくらい浴びせながらというのも悪くないが、それも今は叶わない。
奴は頷く。
「ふむ、威力は無いな。次からは爪を立てることをお勧めするよ」
何処までも頭に来る野郎だ。
此方の頭の血管などは全く気にしていない風に続ける。
「さてゾンビマン。君を子猫の姿にしてしまったことは本当に申し訳ないと思っているよ。昔の研究成果がたこ焼きに混入していたらしくてね。だが心配しなくてもいい、今から私が元に戻る薬を作るからね。君は安心してそこら辺で遊んでいるといい。ああ、遊んでる最中に一度致命傷を受ければ元に戻るかも知れないな」
言い終わる前に、今度はきちんと爪を立て足首に突き刺してやった。うずくまるジーナスの姿をこれ以上1秒も見ていたくない為、店先へ戻る。
俺を不死身の姿にしたジーナス博士が、研究者からたこ焼き店経営者になり、俺の復讐も空振りに終わった。それから暫く経つ。殺したいほど憎かった相手だが、何の因果か時々共にたこ焼きを食うようになってしまった。
しかしだ。彼奴は悪の研究は辞めても、ヘンテコな実験癖は抜けていないらしい。
「え……もしかして66号さんですか」
この台詞はたこ焼きを焼いている喋るゴリラ、アーマードゴリラのものだ。
俺は黙って頷く。
「あー、博士、本当にやったんだ……」
あいつが俺に薬を盛ろうとしていたこと、知ってたのか。
そういう非難を込めて睨む。それが伝わったのかどうか、ゴリラは「いやいや」と首を振る。
「あなたを困らせようとしたんじゃないですよ、博士も。本当です。気にしてましたから、66号さんのこと」
俺は眉間に皺を寄せたまま首を傾げる。
子猫的にはどんな見た目になっているのだろう。
「あなたは不死身の能力以外は普通の人間でしょう? だから、もっと身体能力を上げられれば、毎回傷だらけにならずに済むんじゃないかって」
それだけ言って、ゴリラは慌てて店先に視線を戻した。
「あっ、すみません、お客さん! たこ焼き1パック300円です」
安っぽ過ぎるぜ、と心の中で呟いて、外に出た。
どうせ此処で待っていても同じならば、町を歩いているのもいいだろう。
子猫の姿でヒーローが出来るとは思わないが、何かしら役立つこともあるかも知れない。
目線が低くなることも最早慣れっこだが、そのまま自由に移動できるというのは初めてだ。
見知った町を歩いてみて驚く。
走れば普段よりもずっと早く、狭い場所も楽々通ることができる。これならば現場へ駆け付けるには猫の姿の方が便利かも知れない。自分の意志で変身できるような薬は、開発できるだろうか。いやいや、そんなことを言えば調子に乗るかも知れない。黙っておこう。第一、「ゾンビマン」が子猫姿ってのはどうなんだ。響き的にはハゲマントが子猫になるというくらい似合わない。知り合いにでも会ったら最悪じゃないか。そう思った矢先のことだった。
「ゾンビ」
身体がビクッと跳ねる。
恐る恐る振り返ると、住宅街の道のど真ん中、其処にいたのは見知らぬ少女だった。戦慄のタツマキより小さいように見える。もちろんタツマキのように中身は30歳に近い、などということは無いだろう。
驚いた俺を見て驚いたのか、少女は固まっている。口が「ビ」の形のままなので、今ほどの台詞は彼女のもので間違いない。
「おどろかせちゃった、ごめんね」
今度はささやき声で言う。
「昨日の夜にね、まんがで見たゾンビネコとね、色が似てるなって思ったの」
どんな漫画だ。
少女は暫くジッとしていたが、やがて1歩だけ前に出る。
無視してパトロールに戻ってもいいが、如何せん今の俺はちびの猫だ。子どもと遊んでやってからでも遅くないだろう。と、其処で彼女の手に袋がぶら下がっているのを見とめる。
俺がジッとしていると、また1歩。また1歩。
程無くして隣にしゃがみ込んだ。
「逃げないんだね」
逃げる必要が無い。
人通りの少ない道の端だ。誰の邪魔になることも無いし、危険も無いだろう。腰を降ろす。
「わたしも座っていいかな」
そう言いながら、少女も地面に座る。
「……これ、食べる?」
彼女の手に乗っているのはたこ焼きのパックだった。
何ということだろう、もちろんゴリラと博士の作ったものに間違いない。
また博士の気取った笑みを思い出してしかめっ面をしつつ、彼女が差し出してきたたこ焼きを口で受け取った。
「にゃっ!!!」
悲しいことにこれは俺の悲鳴だ。
たこ焼きがこれ程熱いものだとは思わなかった。
というか、自分の舌までも猫になっているという自覚がなかった。地面に落ちてしまった其れを見て、それから彼女の方を見上げる。
悪いな、後でちゃんと買って返す。
という気持ちを込めて見つめてみるが、全く伝わらない。
「そうか、ゾンビネコは熱いものが食べられないんだった」
と深く頷いている。
恐らくぞのゾンビネコだけでなく大抵の猫には熱々のたこ焼きをやらない方がいい。そう伝える術を考える間もなく、少女はたこ焼きに息をかけ始めた。
ふうふう、ふうふう、とこちらが心配になるほど真剣に息をかける。
それを待つ間に、ふと目蓋を閉じてみる。まだ夕方には早い陽があたたかい。かすかな風に花の匂いがする。
横からは小さな息の音が聞こえている。
そういえば、誰かと並んでものを食うというのは、博士とゴリラ以外では記憶にあるうちでは初めてかも知れない。ましてや自分のために食べ物を冷ましてもらうなど。
思わず笑ってしまい、声が漏れた。
「あ、おなかへったね、ごめんね」
俺の声を催促のそれと思ったのか、少女がようやくたこ焼きを冷ます息を止めた。
彼女は俺に差し出そうとし、しかし少し迷った素振りを見せてから、自分の口にぱくりと半分入れた。
「ん、あふくない」
食べながら「熱くない」と頷くと、ようやくそれを俺に差し出す。
俺は大人しくそれを食べた。うまい。
「今日はゾンビがいるから、ごはんもさびしくない」
強い口調に顔を向けると、彼女は前を真っ直ぐ見ていた。
「……にゃあ」
鳴くと、彼女はあっと声を上げて、再びたこ焼きを冷ます作業に戻る。
それを見ながら、元の姿に戻ったら口の端のソースを拭ってやらねばと思っていた。
全てを食べ終わっても、彼女はなかなかそこを動こうとはしなかった。
チラチラとこちらを確認するところをみると、俺が逃げてしまうと思っているのだろうか。
家までは送るぜ、の一言が伝わらないのがどうにももどかしい。
けれども、ずっとここにいては日が暮れてしまう。
「……にゃあ」
逡巡の結果、鳴く。
「おなかへったの? でももうぜんぶ食べちゃったんだ」
彼女が眉を下げる。
食い意地が張った奴だと思われるのは遺憾だが、この方法しか思い当たらない。
きっと彼女は食べ物を取りに家に戻るだろう。
「にゃあにゃあ」
「ごめんね、ないの」
「にゃにゃああ」
「子猫だもんね、おなかすくよね、どうしよう……」
オロオロと立ち上がった彼女だったが、やがて意を決したように頷いた。
そして俺の方へそうっと手を出す。
「ゾン、ゾン。おいで。牛乳ならあるから」
俺の方も俺の方で、意を決してその手に乗った。
手のひらから喜びが伝わってくる。子猫が自らやってきたことへの嬉しさだろう。
彼女は小さな手をいっぱいに使って、俺を胸に抱いた。
幼い女の子に抱き上げられ、運ばれる日がこようとは。いやそもそも誰かに抱き締められることがあろうとは。道端に並んでたこ焼きを食べるということに続いて、夢にも思わなかったことだ。長く生きているとこんなこともあるのか。
柔らかくあたたかく窮屈な其処。“ゾンビ”に戻ればもう失くしてしまう場所。また目を瞑ってしまう。仕方がない、だって俺は今、猫だから。
アパートの前に着いたとき、あまり良くないなと感じる。玄関先のたくさんのゴミ袋。戸の周りに蜘蛛の巣。
ドアを開けて、思わず顔をしかめる。成る程、ここへ彼女以外の人間が帰ってくることはあまり無いらしい。
「待っててね」
ウキウキした声で冷蔵庫を開けるのを眺める。その白い棚の中には食材はほとんど入っておらず、ぽつんと牛乳パックが空しかった。
子猫の俺にやたらと空腹を尋ねるなと思っていたが、そういうことか。彼女にとってはゾンビネコは自分自身なのかも知れない。
「はい」
欠けたピンクの茶碗に牛乳がなみなみと注がれて出てきた。
彼女は彼女でマグカップに半分ほどのそれを美味しそうに飲む。
「夜ごはん、一緒に食べるとおいしいね」
あれ、昼ごはんだっけ、分かんなくなっちゃった、と彼女は笑う。
茶碗に口をつけながら、俺は俺にできることを探していた。
ヒーローなどと名乗ってみても、結局できるのは文字通り身を削って戦うことだけだ。
「む……」
小さな声にハッとすると、眠そうに目をこする彼女がいた。
急いで布団を……敷くほどの力も技術も今の俺には無い。
と那智の散らかり放題の部屋の物を口でくわえていくつか退かし、なんとかスペースを作った。それから彼女の服の裾をくわえて引く。
「ゾンビネコ……」
フラフラと歩くのを誘導し、空いた場所へ寝かせた。身体にかけるためにタオルを一枚引っ張ってくると、身体ごと抱き寄せられる。
抱き枕にでもするつもりだろう、と思っていたら、何やら感じたことの無い感覚。尻尾を触っているらしい。柔らかくて気持ちいいのか。そのくらい幾らでも触らせてやるが。
「できた」
満足そうに彼女が呟いた。
一体何ができたんだ、と思って尻尾を顔の横に持ってくる。その先にはピンク色のリボンが結ばれた。蝶々結びが縦になっている。
「かわいいね、ゾン。これでもうずっと一緒だよ」
眠たそうな目で微笑む。
にゃあと鳴いて前足で頬に触れると、彼女は安堵したかのように深い溜息を吐いた。それは歳にまるで合っていないものだった。
「……一緒だとちっとも怖くないね」
弱々しく呟いた一言が重くて潰れそうだ。
程無くして寝息が聞こえ出したが、すぐには出ていくことができない。俺が帰ってしまえば、彼女はまた恐ろしい夜を一人で過ごさねばいけないのだろう。
どれ程その場でジッとしていただろう。
玄関からの物音で一気に神経が張り詰める。未だ安らかに眠っている少女を起こさないようにそっとその場所を抜け出した。
そして其処でソレに対峙する。
その生き物は俺の想像とは違うものだった。
「ギ、ギ……」
少し高い呻き声。玄関の中にいるのは間違いなく怪人だった。今ほど幸せな寝床に少女と子猫の2人でいたのがまるで夢のようだ。
それは人に近い形をしている。しかし頭部は大きな面のようになっており、元の形は分からない。
玄関にベタリと座り込んで、暫く俺を見詰めていたが、やがて全身が震え出してきたのが見てとれた。
恐らく、怒りだろう。
「つ、イコ…にナ!!!!!!」
聞き取れない言葉が漏れたかと思うと、獣のような素早さで長い腕を伸ばしてきた。
咄嗟に横っ飛っびして避ける。距離は出ないものの、小さな身体が幸いして攻撃をよけることができた。人間の姿ならば腕の半分くらいは裂けていたかもしれない。
「なル、ケざッッふ!! けっきヲとこぅぃ!!!」
足は速くないが、代わりに腕の攻撃が次々と繰り出される。壁を蹴り、棚を駆け上り、降り、悉くよける。
頻りに言葉を発しながら力任せにそこら中を殴る。自分の手の痛みにも気付いていない。
災害レベル自体は低いかも知れないが、今の俺にとって、そして自らを守る術をまだ持たないあの少女にとっては脅威だった。
どうすればいい。彼女が起き出してくる前に。こんなものを彼女の目に入れたくは無い。それこそ恐ろしい瞬間だ。
そのとき、一瞬、俺の動きが鈍った。
腹部に強烈な痛み。
身体が廊下の奥まで吹っ飛び、叩きつけられる。息が止まる。胃が引っ繰り返る。一方的にやられるというのにはゾンビマンのときに慣れてしまっていた筈だが、この身体では喰らう衝撃が大きいのかも知れない。
立ち上がらなければ、次の攻撃がくる。ズルリとそれが移動してくる。
「あ」
言葉を発したのは目の前のそれではなかった。
すぐ横に小さな足が見える。それから俺の身体は宙に浮く。抱えられたその先を余りにもよく知っている。
「やだ……!!!」
少女がきつく俺を抱き締めたのが分かった。それで更に骨が音を立てたが、先程よりも痛みは感じなかった。
「ニち、ッ……コ」
それが見えない口を開き、少女へ言葉を発する。
彼女はブルブルと首を振った。
冷たいものが額に当たり、彼女が恐怖で泣いていることを知る。
「やだ、やだよ」
「ッッけっきヲとこぅぃ!!!!! いならい!!! ケ、テデッッ!!!」
「やだぁ、やだああ」
彼女は大きな口を開け、顔を歪ませ、一杯に泣きながら、それでも動かない。
怪人はもう目と鼻の先だ。一発でも当たれば、彼女に大きな傷がつくのは間違いない。
残る力を振り絞り、俺は身体を起こす。気づいた彼女が頬を寄せる。
「ゾンビ、生きてたんだね。おねがい、死なないで、一緒にいて」
涙で湿った唇が、俺の狭い額に触れる。返してやりたいが、そんな時間はなかった。
「イナライイイイイイイイ」
激しく言葉を投げるそれに向かって、思い切り踏み切った。
目の部分を狙い、爪を立てる。
「ギャアアアアアアア」
一発で倒れるとは思っていなかった。振り回す腕、引きずりのた打つ身体、一番力があるであろう所を見極める。
「ゾンビ!!!」
俺のヒーローネームを聞きながら、身体を滑り込ませた。
全身が拉げるのが分かる。破裂する命を感じる。けれどそれも、幾らでも。
醜い赤い染みになって、永遠にお前を守ろう。
吹っ飛んでいった尻尾が目の端に映った。ピンク色が揺れて、その向こうで彼女とも目が合い、そして静かにその場へ倒れるのが分かった。
それは俺の残骸を執拗に攻撃し続けている。
一瞬だけ意識が途絶え、それから急速に手足が伸びていくのを感じた。
まずは外に誘き出し、それからいつもの力押しになるだろう。多分、それ程時間は掛からない。せめてその間、彼女がずっと眠っていてくれることを願った。
戦闘を終え、ヒーロー教会に連絡を入れる。お決まりのように全裸だったわけだが、警察で服と電話を借りた。警察の中にはヒーローを嫌う者も少なくないが、今夜訪ねたところは好意的だったので助かった。一刻も早く戻りたかった。
そっと玄関をくぐると、廊下の一部が汚れ、その奥に彼女が倒れていた。迷いなく抱き抱える。今までは自分がされていたことと思うと苦笑してしまう。やはり、抱かれるより抱く方がいい。自らの身体を使って守りたいものを守ることができるのは、安心する。猫の身体は便利だが幾分か力が足りない。
見下げると、彼女は失神したまま眠ってしまったようだった。もう真夜中は過ぎている、幼い彼女には疲労が強すぎたのだろう。
よく見ると頬に涙の跡が幾筋もついていた。親指の腹でそっと拭ったが、取れなかった。服も汚れているし、髪も乱れている。俺はそのどれもを直してやれない。それどころか、直ったとしてももう近くから見ることはない。
猫ではなく不死身のヒーローに戻ってしまった。たったひとりの女の子をやっとの思いで助け、見守る役目はお終いだ。不死身の身体は力があるが、傍にいることはできない。
きっと彼女はこの先、同じように時間を進めることのできる人間に涙を拭ってもらうだろう。寄り添って生きていくのだろう。死ぬまで。
死なないで、いっしょにいて。その願いが俺にとってどういうものであるか、お前は知らない。
俺は永遠にお前の世界丸ごとを守るしかない。
自分の顔から今は苦笑いさえも消えていることに、そこでようやく気づいた。
視線を下げると、赤い染みの真ん中に一筋のリボンが浮いていた。
猫が苦手なのよね、と女は困ったように笑い言った。点けたままにしてあったテレビの中で、子猫が子どもと遊んでいる。深夜の古い映画のようだ。
「なんかあったのか?」
ブラックコーヒーと煙草を持って、彼女の横には男が座る。同い年くらいか。恋人同士なのかも知れない。
「小さいときにね、目の前で死んじゃって」
「そうか」
「普通の死に方じゃなかったのよ、怪人から私を守ってくれたの。本当に賢くて素敵な猫だった」
「そうか」
「でもあんまりにも悲しくて怖くて、それ以来だめ。飼いたい気持ちが無い訳じゃないんだけど、きっともう猫と一緒には暮らせない」
「いいじゃねえか」
男は彼女の方を見ず、静かに煙を吐いた。
映画は場面が変わり、赤ん坊がベッドに眠っている。それを両親が微笑んでのぞき込んでいる。
「どうしていいの?」
「悪い男に捕まる心配がない」
「……どういうこと?」
男はプツンとテレビを消して、今度は彼女の方を見た。
「お前にはもう俺がいるってことだ」
一瞬きょとんとした彼女だが、すぐにクスクス笑い出す。
「ゾンビマンが猫だって言ってるみたい」
「リボンでもつけとくか?」
「いいね、ずっと私の猫だ」
ゾンビマンが猫だったらきっと黒か灰色ね、と嬉しそうに笑う彼女の隣で、男も肩を揺らす。ずっと変わらない顔で今は笑う。
2人の夜はまだ続く。
『リボンを巻いた尻尾』
巻いて巻かれて、巻けなくて
企画「星墜」さんへ