「スピードワゴン?」

その日、声をかけたのは、特別な理由があったわけではない。ただ、本当に久し振りに、一人で歩く彼を見つけて、それも近い距離で、今を逃せば彼と永遠に向き合えないような気がした。
路地を向こうから歩いてくる彼は、一瞬こちらに目をやったが、何の表情も見せることなく逸らした。その瞬間、余りに胸が痛んだので、驚いてしまった。どうしてこうなるまで私たちは会わなかったのだろう。

彼が本当は、誰かを救いたいと、支えたいと強く思い続けて生きてきたことを、誰よりもよく知っている。
塵溜めのようなこの街にも、様々な家があり、様々な人間が住む。私は其処で少しばかり良い暮らし、少しばかり多くの物を与えられていた。裏通りから少しばかり離れた明るい道に、私の家は面している。
しかしそれも外側だけの話で、所詮塵だらけの街にいる。
だから彼とも知り合いだ。…知り合い。幼い頃は違った。友人だった。
何処もかしこも危なげな街にだって、子供はいる。そして幸せな場所を見つけようとする。お節介焼きの彼には、随分と助けられた。
「お前って奴はよお」
そう言って明るく笑いながら、彼は私の手を引く。どれ程暗い場所にいたって、彼は輝いていた。正義というものをはっきり定義できるわけではないが、彼はそのような存在であると確信していた。
時が経つにつれ、私たちは離れていった。
私は学校に通い、試験を受け、更に遠い学校に行くようになった。
彼はと言えば、次第次第により暗い道を歩くようになった。
少しずつ曇っていったのだ。彼の星のように輝いていた希望は、現実を知る度に。やがてそれは取り返せない程の曇りになり、彼をすっぽり覆ってしまう。漸く私が気付いたときには、やはり、何もかも遅かった。
そう分かっている筈なのに、彼に関する悪い噂を聞く度に、私はムキになって其れを否定した。


「スピードワゴン!」

もう一度その名前を呼び、通り過ぎようとする彼の腕を掴んだ。

「……なんだ」

目を合わせない彼に、口籠る。
私は彼に何が言いたいんだろう。

「え、っと……」
「用が無いなら行くぜ」

腕に力をこめられる。私の手からまたすり抜けていってしまう、それは、

「いや!」

大きな声が出た。同時にぎゅっと両手で腕を握る。
筋肉がついた、逞しい腕。彼は此処でこの腕を使い生きていたのだ。私が知らない時間を。

「何がだよ」
「……ずっと、話したかった、貴方と」
「……そうか」

顔を上げると、まともに彼の視線がぶつかる。
彼が笑ったのを、確かに見たような気がした。
だからようやっと言ったのだ。

「私たち、また一緒に、いられるよね」

スピードワゴンは暫く黙っていたが、やがて、私を連れたまま、明るい通りの入り口まで歩いた。小さな頃を思い出す。彼はこうして私を連れて色々なところを歩いた。何処までも一緒に行ける気がしていた。
路地をあと一歩で出られる場所まで来て、彼は徐に反対の手で、私の手を取った。そして自らの腕から、静かに、私の指を離す。
その手付きが余りに穏やかだったので、私は何も言えず、それ以上抵抗することができなかった。

「もう違うんだ。二度と俺に話し掛けるな」

深く被った帽子で表情は見えなかった。
私は何時までも彼の背中を見詰めていた。



『離れてしまった真っ白な地球』


題名、うおさん

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