大切なものなんてないよ、と私がそんな風なことを言うと、あなたは静かに顔を歪めて見せたね。

顔を歪めるのも、それを静かに見せるのも、どちらもあなたの優しさだったね。
あなたは優しい人だった。
その優しさはときに潔癖となって、あなたを苦しめたこともあったのだよね。きっと今なら、大丈夫だと思うよ。
誰もを拒んでいた孤独なあなたじゃない。頼ったり、頼られたり、そういうことで繋がりは深くなっていく。一緒に寝たり食べたり息をしたりすることで、人と通い合う可能性は大きくなる。
あなたはそれを、きっと分かってきていたよね。


「どうして……」

誰に言うでもなく、ただ言葉が転がり落ちてピチャンと音を立てた。
手を伸ばすと、そこに彼がいる。今なら触れられる。なのに、私はそれをできないでいた。
多分わたしは、彼の皮ではなく、中身や温みが好きだったから。

不意に、大切なものなんてないよ、というようなことを言ったあの日を思い出した。
あれには、続きがあったんだよ。
あなたの優しさに見とれてしまって、言えなかったんだよ。

私の指先はすっかり冷たくなっていて、やっとの思いで持ち上げた。
でも、とてもあなたの顔までは届きそうもないね。
私は、彼の腹の辺りに指を伸ばす。
あの日のあなたのように、本当に静かに、何一つとして逃してしまうことのないように触れたはずだったのに、やはりそこには何もなかった。
赤々とした嘘のような何かが詰まっているだけで。

「ああ」

吐息とも何ともつかぬものが口から漏れる。これであなたの穴を少しは埋められないだろうか。

「ああ」

両手の指を、そこへ伸ばし入れる。温かいのか冷たいのか分からなかった。あなたがそこにどんな気持ちを隠して、大切にしていたのかも、知り得なかった。
ただあなたが「大切なものなんて」と言ったら、私は静かに泣きたくなったろうと、今さらになって思うのだ。

ねえ、笑っていいかな。



『大切なものなんて』



無いよ、あなたの他には。


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