彼の名前がモブでないと知ったのはつい最近のことだ。

「えっ、影山しげおっていうの?」
「何だと思ってたの。」
「てっきりカタカナでモブだと。」
「違うよ、ほら。」

モブ君が見せてくれた生徒手帳にはなるほど、影山茂夫と書かれていた。

「ははあ、しげおね、しげお。」
「うん、まあ、でもモブでいいけど。みんなそう呼ぶし。」
「ふーん、師匠も?」

そこで突然師匠が出てきたのは、名前の話の前にバイトの話をしていたからだ。
私たちはここ数日でぐんと距離を縮めている。
というか、数日前まではお互いに認識すらしていなかったろう。

インフルエンザが流行り、友だちが休んだ。その友だちは委員会に入っており、その代打で集まりに参加した。奇しくもモブ君も同じような境遇だった。
居眠りで聞き逃した情報を隣の席のモブ君に確認しているうちに、なんとなく、雑談もするようになったのだった。まだ一週間くらいだけど。
今日も委員会が終わった教室で、だらだらと、他愛も無い話をしている。
有りそうで無さそうな偶然の重なりから、こうして二人で時間を過ごすこと。それは、何かに言い換えられないかなと思う。例えば、運命とか、超能力とか。

「うん。」
「へえ、師匠って言っても友だちみたいだね。」
「え、師匠だよ。」
「あ、知ってるけども。」
「あ、ごめん。」
「いや、いいよ。」

モブ君は打てば響くというタイプではないし、イケメンというわけでもないけれど、話し方が優しい。
淀み無く話せるわけでは決してなく、間が出来るとこちらも焦るのだが、隣でモブ君も焦っていたりして、ちょっと面白い。もちろんぼけーっと明後日の方を見ていることもあるが。
もっと知りたいなあと思う。だから私は言ったのだと思う。

「ね、私も師匠、見てみたい。見学行っていいかな。お願い。」

モブ君はちょっと目を丸くして、こくんと頷いた。
その様子がかわいくて、笑うと、モブ君は「なんで笑うの」とあせあせしていた。
ほんとはそういうのがもっと見たくて頼んだのだと、言えない。


「こんにちは、本日のご相談は…」

師匠はそこで言葉を切って、明らかに「あ?ガキじゃねえか」という顔した。
私は面食らっていた。モブ君の師匠だというから、モブ君を大人にしたような、黒髪の、草とか食べて生きていそうな、背の高い、格好良い大人を想像していた。

「師匠、見学したいって。」
「は?職業体験はやってねえんだよ、モブ。」

モブ君は一蹴され、口を結んだ。
私は、おや?と思う。いつもの(と言ってもまだ数日しか知らないが)モブ君なら困った顔をして俯くだろうに、今は抵抗するように師匠の顔を見ている。
霊とか相談所という看板を見たときには胡散臭っ!と思ったが、モブ君が信頼する人なら、悪い人ではあるまい。
私の言い出したことであるし、頑張ってみよう。

「あの、私、影山の君の友だちで。師匠がとても良い人だって聞いて、だから、見てみたくなったというか、そういう感じです。」

全然駄目だった。日本語がぐだぐだである。
そもそも私たち友だちなのだろうか。勝手に友人を名乗ってしまってごめんモブ君。
変な汗までかきだした。

「ふーん、モブの友だちか。」

もう問答無用で放り出されるかと思ったが、そうでもなかった。
師匠は唇の端で笑った。お、ちょっとカッコいい。胡散臭さは増したが。

「なんだ、モブ。俺はてっきり男かと思ってたぜ。」
「あ、いや、う。」

どういうことだ?とモブ君を見ると、今度こそ俯いていた。
師匠が私の方を見る。

「ここんとこモブの話によく出てくる奴がいてな。妙に楽しそうに話すと思ったら、なるほどな。」

もう一度モブ君の方を見ると、顎が胸に付くんじゃないかというほど俯いていた。
そうか、私の話を師匠にしていたのか。ということは、モブ君の友だちってことでいいのかな、私。友だちってほどじゃなくても、それに近いってことでいいのかな、モブ君。
そう思うと、やっぱりここでのモブ君ももっと見てみたいと強く思って、改めて師匠に向き合って口を開く。

「あの、師匠ちょっとだけ……。」
「俺はお前の師匠じゃないぞ。霊幻だ。」
「あっ、すみません、霊幻しゃん。あっ、やだ、噛んだ、霊げにゃんさん、あ、もう、いやだ。」
「なんだその噛み方、始めて聞いた。」
「私もです。」
「だろうな。ま、いいよ。」
「え。」
「見学してけ。大したことしてないがな、モブは。」
「あ、いえ、私は師匠を見に来ただけで」
「霊幻だっつってんだろ。」
「おっといっけね。」
「はは、モブから聞いてたのより面白いな、お前。」
「どうも。」
「客が来たら奥に引っ込んどけよ。」
「はい!」

霊幻さんは「そこらに座っとけ、菓子でもやるよ」と言って奥の部屋に入っていった。
嬉々として部屋に入ろうとして、モブ君の方を見ると、今度はちょっと複雑そうな顔をしていた。(多分これは複雑そうな表情で合っている、と思う)

「モブ君?」
「えっ、何?」
「いや、何っていうか、見学許可貰えて良かったよねーっていう…いや私のことなんだけど。」
「あー、うん。」

心此処に在らずといった風である。

「どうしたの?…やっぱ迷惑だった?あとで師匠に怒られる?」
「いや、そんなことは無い、と思う。」
「そっか。」

そこで沈黙。
師匠早く戻って来てくれないかなと奥の扉をちらちら見る。
モブ君がいきなり口を開いた。

「でも、もう師匠見たから、いいよね。」
「えっ。」
「えっ、だって、それが目的だったでしょ?」
「あ、うん、いや…」
「?」

モブ君は別に怒っているという感じではない。どちらかというと、困っているという感じだ。
あ、やっぱり迷惑だったのか、と思う。

「そうか、そだね。うん、じゃあ、帰るわ。」
「あ、うん。」
「師匠…じゃないや、霊幻さんによろしく。」
「…うん。」

またね、と言えない。


外に出て、何だかとても空しくて驚く。
青空だったはずが、今はもう夕暮れに差し掛かっている。青と赤と白とが境界を侵しつつ空に塗られていて、トリコロールを思い出す。けれども、そんな空も、その下の街も、その中の人も、全部の色が宵闇の気配を受けて薄ぼんやりと見える。どこもかしこもすっきりしていない。
見上げると霊とか相談所という胡散臭い看板があって、せっかくここまで来たのになあと思った。
もう少しモブ君を見てたかったなあ、と思った。
でも帰らなくちゃ。知らない道を1人で戻って、帰らなくちゃ。明日からモブ君とどうやって喋ればいいんだろう。できるかな。どうだろう。
そう思ったら、不意にじわりと目が熱くなって驚く。
友だちに追い返されたくらいで何故泣く?ていうか友だちじゃないし。まだ友だちですらないし。
ぽろぽろ零れてくる涙を手の甲で拭いながら、歩き出さねばと思う。

「ね、ねえ!」

反射的に振り返ると、そこには息の上がったモブ君がいた。階段を駆け下りて来たのだろうか。
肩で息をしながら、私の顔を見て、ぎょっとした顔をする。
慌てて私は俯く。さっきのモブ君みたい。
少し沈黙。居た堪れなくなって、踵を返して歩き出そうとすると、引き止められた、腕。

「な、なにっ?」

思うより大きな声が出て、モブ君がパッと手を離す。

「えっ、と…泣いてる、の?」

見なくても、モブ君が焦った顔をしておどおどしているのが分かる。
でも多分私もそんな感じだろう。

「えっ、ううん、泣いてない、泣いてない。」
「えっ、でも」
「霊が。」
「えっ」

咄嗟に言ってしまったが、もう突き通すしかない。

「霊が、目に、入って。小さいやつ。」

言いながらもう泣けばいいのか笑えばいいのか分からなかった。
なんだそりゃ。霊ってそんな細かいもんなの。

「見せて」

モブ君には究極的に空気が読めない瞬間があるのだとそのとき私は学習した。
気づいたときには眼前いっぱいモブ君だった。
肩にモブ君の手が置かれている。思うより小さい。
きっと私の目の中に入っているであろう霊を覗き込んで探している。
天下の往来で、こんなに顔を近くして、一体彼は、何なんだ。
でも間違いなく彼は真剣で、必死で、目を逸らせなかった。

どのくらい経ったのか分からないが、モブ君は酷く狼狽した様子で私から離れた。

「どうしよう、見つからない。僕どうしたんだろう。」
「え、いや、大丈夫だよ。むしろどうかしてるのは私の方で…」
「でも困るでしょ、入りっぱなしだったら。そうだ、師匠なら」

そこまで言ってモブ君は口を閉じた。
私は黙ったままでいる。きっと目は赤いだろうが、もう涙は止まっていた。

「いや、僕が見つける。もっかい見せて。」

今度は頬を手で挟まれて、身体がびくり跳ねて固まった。

息ってどうやってするんだっけと考える。
ああ、人とこんなに近くなったこと、今まであったかな。気が遠くなりそうだ。モブ君の前髪がさらさらだ。モブ君の目が大きく開かれている。目の前いっぱいにモブ君の白い肌。きっとホワイトアウトというのはこのように起こる。抵抗できない大きな美しい力の前で目を開けているか、目を瞑っているしかない。
人のことこんなに心配できる、少しずれている、優しい、モブ君。

くらくらする頭で、それでもモブ君の表情が、不意に今にも泣きそうな顔に見えた。

「大丈夫!取れたみたい!!勝手に!!!」

がっしとモブ君の顔を持ち、私は大声を出した。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔、というのはこういう顔だろうとモブ君を直視して思う。
一瞬間があって、モブ君が私の顔を離して「あわわ」みたいな声を出した。漫画のような人だな。

「ご、ごめんっ、僕、近いの、気づかなくて!」
「いや、大丈夫!心配してくれてありがとう!」
「どっ、どういたしまして!」

傍から見るとどれだけ滑稽な図だったろう。
モブ君はやり場を失った両手を軽く広げてぱたぱたと動かし、私はモブ君の顔を必要以上に力強く掴んだまま、顔を真っ赤にしている。私たちの手と手は、知らない生き物のように、それぞれ動いていて、力を込めて、気持ちがゆっくり着いてくる。
そうだ、言わねばと思った。

「あのさモブ君!」
「う、うん?」
「私、師匠の顔も見たかったけどさ!」
「う、うん。」
「モブ君のことの方がもっと見たかった!」
「う?」
「どうやって働いてんだろうとか、そういう、ことを!どんな顔してバイトしてんのかなって、そういうような、ことをね!見たかったの!」

モブ君はごくんと唾を飲んで、こくこくと頷いた。
言い切った私は着地点を見つけられずにそのままの体勢を維持していた。
モブ君は二、三度手を上下させた後で、思い切ったように私の手に触った。それから自分の頬からそうっと剥がす。
モブ君のほっぺたが赤くなっていて、自分の力強さを恥じた。
少し呼吸を整えてから、モブ君が私を見て、口を開く。

「うん。いいよ。…というか、僕も……また来てほしい、から。」

ひどく間を取って、照れたように言うので、私も照れて、照れすぎて、涙が滲んだ。

「うん」

また霊を探されないように、思い切り笑った。
モブ君もはにかんだように見えた。






(おまけ)
「モブ君は今日はもう帰るの?」
「ううん、まだバイトだよ。…見て、行く?」
「う、うん、そうする!…あれ?じゃあなんで外来たの?」
「あ、それは師匠が。」
「師匠?」
「うん。師匠が、僕のこと見に来たんだろって。」
「え……私がモブ君のこと見に来たって、バレてたの?」
「あ、うん。」
「で、モブ君もそれ知って追いかけて来たってこと?」
「あ、うん。」
「…言い損じゃん、私。」
「あ、うん?」
「帰る。やっぱ帰る。」
「え!え!?なんで!?」



(窓から見学の師匠)
「おうおう、青春だな…っておい何でまたあの子帰ろうとしてんの!?モブまた空気読めないこと言ったな…!」




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