spinastoryサンプル | ナノ

 【サンプル】*本編は縦書きとなります。



では留守中よろしくお願いします。
そう言って円が部屋を出て行ったのは十分程前のこと。
朝食で使ったお皿を洗っている央の隣で私は、ティーカップを片付けながら話を切り出すタイミングを窺っていた。
ちらりと視線を横にやれば、フンフンと鼻歌を奏でるご機嫌そうな央。
揺れる若草色の髪の毛が陽に透けて光る。
こんな爽やかな朝に似つかわしくない話しだ―と口に出すことを躊躇うが、円の留守中でないと意味がないので葛藤してしまう。
また日を改めようか。
そう心が折れかけた時、不意に央がくすりと小さく笑った。
「なに? また円と何かあった?」
「…………」
すぐに円のことだって決めつけないでほしい、なんて台詞が頭に浮かんですぐ消える。だってその通りなのだから。
「あのね、その……すごく言いづらいことなの」
「うんうん、なぁに?」
柔らかく頷く央に促されつつもうまく言葉が出てこない。
なかなか踏ん切りの付かない私を、彼は急かすことなくただ黙って待ってくれていた。
「あの、ね……円って私に、その……キスしかしてこないのよ」
「…………ほー」
(ほー、って)
我ながら非常識な相談事だとは思うけれど、こんなこと央にしか言えないのだから仕方ない。
ほー。そう言ったきり静かになってしまった央。
朝日の射す室内には食器を洗う水音だけが響いていた。



この世界で円と生きる、そう決めてからもういくつの季節が過ぎただろうか。
円と私はこんなふうだから喧嘩もたくさんする。
素直じゃない私たちは仲直りらしい仲直りもないけれど、それでも二人なりのペースで歩み寄ってきた。
最初よりもずっと円のことを知り、最初よりもずっと円のことを好きになって。
もっと、もっと円に近づきたいと思うようになった。
それはきっと自然な感情で、日々を共に過ごす上でお互い少しずつ積もっていくものだと―少なくとも私はそう信じていた。
けれどいつまで経っても私たちの距離は同じまま。
円は私をからかうばかりで踏み込んでは来ない。
もっと近づきたいと思うようになって知ったのは、円が私と距離を取ろうとしている事実だった。

 

「紅茶、お砂糖入れる?」
「あ……いいえ、いらないわ。ありがとう」
 ついぼんやりしていたら、いつの間にか央が紅茶を入れてくれていた。
気付いた途端にふわりといい香りが鼻を過って、少しだけ心が和らぐ。
そういえばさっきは円と同じやりとりをしたっけ、と兄弟のそっくりな行動にまた一人で笑ってしまった。
息を吹きかけて冷ました琥珀色を一口すすり、私は佇まいを直す。
「円はやっぱり、私のことを子供だと思っているのかしら?」
じわりと熱くなった目頭。
不安を言葉にしてしまったことで、心の奥に何かが重く圧し掛かった気がした。
事あるごとにすぐ私を【お子様】だと揶揄する円。
子ども扱いしないで、なんて頬を膨らませて笑っていられたのはいつまでだっただろう。
今では円に子供扱いされる度、泣き出しそうになるのを堪えることで精一杯。
私にない十年間は、どうしたって埋めることができないから。
思わず俯いてしまった私の頭をぽん、と軽く撫でた央が小さな溜息を零す。
「子供ねぇ……僕から見たらどっちが子供なんだって感じだけど」
「どういう意味?」
意味深な台詞を吐いた央は、ゆったりとした動作で紅茶を口に運ぶだけで私の問いには答えてくれない。
「ねぇ、撫子ちゃんは円ってどんな人間だと思う?」
そのかわりそんな難しい質問をしてくるから、このお兄ちゃんはたちが悪い。
何だか話をはぐらかされたような気がして、唇を尖らせ不機嫌を主張したまま指折り数えてみる。
「そうね、まず円は小さな頃からお兄ちゃんのことがとっても大好きで、そのくせ言葉と行動が全く伴わないくらい素直じゃなくて、人をからかっては楽しそう笑って、私の怒った顔が好きだなんて言う嫌な人」
「ははっ、スラスラ出てくるねー」
くしゃりと顔を歪めて笑う央につられて、私も笑ってしまった。
もともと口は達者な方だけれど、この減らず口は円の影響も絶対にあると思う。
ひとしきり笑って、ひとつ息を吐いた。
「……素直じゃないから自分の中に溜め込んでしまうことが多いし、感情が表に出にくいから誤解されやすいわ」
もっと頼ってくれればいいのに―何度そう思ったことか知れない。
きっと円は今も、一人で何かを抱えている。
「あいつは本当に臆病者だからねー」
困った弟ですよ、と優しげに呟いた央の言葉に、胸がきゅうっと狭くなった。
―臆病者。
央の言うように円が臆病者ならば、私も同じ。
彼の態度に不安を覚えながらも、恐くて自分から行動できなかった。
円が何を考えているのか理解したいと思う一方で、本心を知ってしまうことが恐かったんだ。
カチャリ、とカップがソーサーから持ち上がる音にはっとする。口元を強く引き結んでいたことに気付いた。
そんな私を見た央が柔らかく笑う。
「円に直接聞いてごらん? 君ら二人は基本的に話し合いが足らないんだよ。口喧嘩はしょっちゅうしているくせに……何でだろうねぇ」
「だってどう話し合えって言うのよ……円はどうして私にキス以上のことしないの? なんてそんなこと本人に聞けるわけないじゃない」
「なんてことを央に話してるんですか、あなたは……」
「―っ!」
背中越しに届いたのは、今聞こえるはずがないと思っていた声。
心臓が口から飛び出そうになるとは正にこのこと。
正面に座っていた央があちゃー、という表情を作ったのをただただ見つめることしかできなかった。
(ふ、ふりむけない……)
ほんの数十分前に出掛けたばかりなのになぜ居るのか、とか。一体どこから話を聞いていたのか、とか。
言いたいことはたくさんあるのに、予想外の展開に頭が働かない。
固まった思考と体にどうすることもできずにいれば、気まずい空気を破ってくれたのは央だった。
「どうしたの、円。もう定例会議終わった……わけは無いよねぇ?」
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