幸福というもの
薄く開いた窓から、カーテンの隙間をくぐり抜けて、秋特有の涼やかな風が流れ込む。
「名無し、もう寝ちゃった?」
目の前でふわふわと揺れる細糸の様な髪を、指に巻き付けて遊びながらその耳元で囁くように尋ねた。
反応の無い、小さな背中。
首筋を撫で上げ、わざと音を立てて吸い付くようなキスを落とすと、ピクッと肩が震えた。
「こーら、タヌキ。」
「わやぁっ…!」
かぷっと耳たぶに噛み付けば何とも情けない声を上げる可愛い恋人。
少しだけ顔を赤らめて、恨めしげな目で振り返る名無しの姿に、俺の口元はだらし無く緩んでしまう。
「もぅダメだからね!」
「…まだ何も言ってないでしょーよ。」
狭いベッドの中で、俺とできる限り距離を取ろうとする名無し。
明日の朝は遅めでいいからと、ついいつもよりねちっこく求めてしまったので警戒しているのだろう。
(ま、その予想はあながち外れてないけどね。)
「いいじゃない、もうちょっと愛を確かめ合おうヨ。」
「ひゃっ、ちょっと!もうお腹一杯だからっ!」
腰に手を回して引き寄せようとする俺の体を、グッと両手で押し返す君。
負けじと足を絡めて身を寄せる俺。
シーツの中に潜り込んだまま無言の争いが数分続き、お互いの息が上がってくる頃には二人で笑い転げていた。
ベッドの上で、クナイのひとつも身につけていない無防備な寝間着姿で、腕の中にあるのは何より愛しい笑顔。
俺の腕はきっと名無しを抱く為に作られているんだろう。
そう思うくらいに彼女の形や感触がしっくりくる。
髪の毛、肩、鎖骨、耳たぶ、目、頬、隙間無く小さなキスを落とせば、擽ったそうに身をよじる名無し。
愛おしいという感情が高まると、こんなにも胸が苦しくなるのは何故だろうか。
自分にこんな感情があるなんて、名無しと出会うまで知らなかった。
見つめれば見つめ返してくる瞳。
名を呼べば名を呼び返してくる声。
握れば握り返してくる手。
俺に対する反応全てが堪らなく嬉しい。
「......好きだよ。」
「ふふ、私もカカシが大好きよ。」
本当に、本当に好きなんだよ。
この気持ちを、君はちゃんと分かってるのかな。
言葉ではとても伝えきれないもどかしさに、時折酷く焦れったく思う。
大切過ぎて、狂おしいくらいに愛しい。
もしこの腕の中から消えてしまったら、俺はどうなってしまうのか。
考えただけでぞくりと背筋が震える。
「ねぇ…。」
「ん…、なぁに…?」
俺の胸にすっかり体を預けてウトウトとまどろむ名無しは、少し舌足らずな返事を返す。
「ずっと傍にいてよ。」
思いの外不安げな声になってしまったことに、自分自身戸惑う。
丸くて黒目がちな瞳を一瞬ぱちくりさせて、それから名無しはふわりと微笑んだ。
「カカシは幸せ慣れしてないのね。」
「…そう、かな。」
幸せ。
俺、今、幸せなんだ。
幸せだから怖いんだ。
物心ついた時からずっと忍ぶ道を歩んできたから、
己の幸せなんて考えたことが無かった。
里や仲間達を守ることが俺の存在理由で、それだけの為に生きてきた。
俺は自分の生き方に満足していたし、むしろそれ以外の生き方など考えたこともなかった。
そんな俺の前に現れた、君という人間。
忍としてではなく、ただひとりの男として守りたいと思う唯一の存在。
それが君なんだ。
もともと執着心が薄い俺が、名無しだけはもう何があっても離してやれない。
君の言う幸せってやつは、君とじゃなきゃ感じられないから。
この平穏を知ってしまったらもう最後。
名無しがいなかったら、俺はきっと自分を保ってられないだろう。
だから、怖い。
恐ろしくて堪らなない。
「カカシ。」
「あ…、え?」
つい考えに耽ってしまった俺を、名無しの少しだけ高い声が現実へと戻す。
「よしよし、大丈夫よ。
今よりもっともーっと私がカカシを幸せにしてあげる。嫌だって言っても離してあげないから。」
いたずらっ子みたいな瞳を覗かせて俺の頭を抱き寄せた名無しの手は、俺のそれよりずっと小さいはずなのに、俺の身体も心も全てを包み込む。
「カカシの幸せは私が守ってあげる。」
まるで子供に言い聞かせるみたいに頭を撫でて、ふふふ、と楽しそうに笑ってそう言った君に、きっと俺は一生頭が上がんない。
溺れるってこういうこを言うんだろうな、なんて、君の体温を感じながら思う。
もう、名無しがいない世界なんて想像すらできないから。
だから、弱虫で臆病な俺を、いつまでもそうして隣で笑い飛ばしてよ。
俺に、幸せって感覚を与えてくれるのは世界中で君しかいないから。
願わくば、君を幸せにできるのも俺だけでありますように。