――来た、と思った。


 頭の奥が揺さぶられて反射的にぎゅっと目を瞑る。咄嗟に廊下の壁に手をついて身体を支えたけれども、暗闇の中で視界はまだぐるぐると回っているようで、得体の知れない不快感がお腹の底から喉元へと這い上がってきた。音叉のような耳鳴りのせいで、周りの音がどんどん遠ざかっていく。


 大丈夫。いつものことだ。
 こうして少し休んでいれば必ず楽になる。


 何度も、何年も、ずっと付き合ってきた。わたしの身体のことはわたしが一番知っている。これは「しょうがない」のだ。
 しかし今回に限って、いくら待てども身体を包む倦怠感は去らない。背中が嫌な汗でじっとりと濡れて、指先から体温が奪われていく。どくどくと脈打つ心臓が言う。これは少し……駄目なやつだ。
 諦めて人を呼ぶか、と思ったそのときだった。


「おい」
「……あ」
「意識はあるが顔色が悪い。おまえ、自分の症状を言えるか」
「すみ、ません……むり、」
「マスター。なまえ!」


 わたしの名前を呼んだのが誰なのか考える前に、膝に力が入らなくなった。一瞬の浮遊感と共に視界が真っ白に塗りつぶされる。チカチカと星が飛ぶ視界の向こう側、最後に見たのは至近距離でわたしを覗き込むひどく冷めた緑色の瞳だった。




***




 目を開ければ見慣れない天井があり、しばし逡巡する。意識を失う折に声をかけてくれた誰かが医務室のベッドまで運んでくれたらしい。片肘を立てて身体を起こすと、まだ少しだけふらふらした。


「起きたか。気分はどうだ」
「……ごめんなさい、迷惑をかけました」
「僕はおまえに症状を聞いている。簡潔に答えろ」
「まだ少し頭痛がするけど、これはただの」
「知っている、貧血だろう。フン……下らん」


 今まで読んでいたのだろう分厚い本を音を立てて閉じると、わたしを助けてくれた医神は細く長い溜息を吐いた。そのままぐいとわたしの顔を覗き込む。およそ現世に生きる人間のものではない、つくりもののように綺麗な顔が目の前にぬっと現れたものだから、反射的に身を引いてしまう。


「暴れるな。診察だ」
「はい……」


 そのままアスクレピオスは事務的にわたしの瞼を裏の色を確認し、脈を取り、舌の様子を見た。彼の一連の行為には親愛の情や慈しみがひとかけらも感じられなくて、そのことになんだかとても安心しまった。異聞帯の住人だろうと人類最後のマスターだろうと、この医神の前では病んでいれば皆等しく患者らしい。貧血を「病んでいる」と称するのは少々抵抗があるけれども。
 召喚されて早々「医務室を見せろ話はそれからだ」とわたしに詰め寄り、ナイチンゲールと一悶着ありつつもあれよあれよという間にノウム・カルデアの医療班の座に収まったのはほんの少し前の話だ。医療スタッフからの又聞きだけれど、方方を巻き込む結構な騒動だったらしい。


「本当にごめんなさい。運んでくれてありがとう」
「僕は非力だがマスターひとりを抱えることくらい造作もない。ただの人間を診るのは久しぶりだったが全くつまらんな。珍しい患者を連れてくると言うから召喚に応じたのに、最初に診るのがおまえの貧血とは」
「生理中はどうしてもひどくて。気を失うのはさすがに初めてだったけど」
「鉄でも舐めておけ、と言いたいが……ふむ、月経由来か。『仕方がない』などとは医者として絶対に言いたくはないことだが、いくら自愛しても防ぎようのないことはあるだろう。特に女の身体というのは未だ不可解だ」


 思わず「生理」という単語が口をついてしまい顔色を窺ったけれど、アスクレピオスは露ほども気にしていないようだった。サーヴァントもスタッフも癖が強い人物が多く意思疎通がスムーズにいかないこともある中で、簡潔に淡々と事実を述べるだけのやりとりは心地良い。
 インドではあのような出会い方だったけれども、こちらに召喚されてからの彼は非常に強い味方だった。医務室に殴り込みを掛けた数日後にはスタッフのヘルスデータや医療設備をモノにしてしまい、医療スタッフの中でその地位を確立した彼は、今では毎日部屋に引きこもり医術の研究に励んでいると聞いた。召喚した直後に詰め寄られて以来とんと顔を見ることがなかったけれど、それを寂しいと考える暇もないほどにわたしは余裕が無かったのだな、と少し笑ってしまった。ぐだぐだとは何と恐ろしい。




 似ている、なんて烏滸がましい。
 武器を構えたわたしの仲間たちと直前まで命のやりとりをしていたにも関わらず、目の前で転んだ子どもに躊躇いなく手を差し伸べたアスクレピオスに感じたのは、仄暗い後ろめたさだったと思う。
 無駄なことだとわかっていながら、手の届く範囲の命を拾い上げようとする。わたしの繰り返す自己満足な救済は不健全な贖罪を孕んでいる。だからあのとき、迷いなく少年に手を伸ばした彼のことを、もっと知りたいと思ったのだ。




 願ったら呆気なく届いてしまった。
 酷く不機嫌そうに召喚サークルに現れたアスクレピオスに、わたしは上手く笑えていただろうか。


「飲め。そして寝ていろ」


 とりとめのない思考を遮ったのは目の前にずいと差し出された錠剤だった。長い前髪の隙間から、緑色の目がじっとこちらを見ている。つるりとした丸薬の見た目からは味も効能も想像できなかったけれど、これはきっと飲んでも大丈夫なやつだ。パラケルススや子ギルくんの前科があるせいで、サーヴァントから提供されるものを無闇に口にしてはいけない、と学んでいる。しかしこの医神に限って、人を害すようなものをあえて処方はしないだろう。たぶん。
 意を決して口に放り込んだ丸薬は鉄の味がした。 


「すぐに効く。久しぶりの調薬に少々張り切りすぎた気がしないでもないが…………まあ、問題ないだろう」
「いまの間はなに」
「うるさい。その質問は時間の無駄だ。患者のお前ができるのはただ医者を信用することだけだ」
「う、うん」


 力の入らない腕で毛布と格闘していると、見かねたのか首元まで引っ張り上げるのを手伝ってくれた。長く垂れ下がった袖が頬を撫でるのがくすぐったくて喉の奥で笑うと、彼は不可解そうに眉を顰めた。


「ありがとう。おやすみなさい」
「……」


 返事はなかったけれども、彼がひっそりとこちらを気にしている気配がする。 
 倒れるわたしを抱き止めた腕も、真剣に診察をするその瞳も、薬を差し出す手のひらも、こんなに優しいことを知ったのだ。次はきっと上手くやれる。
 薬のおかげか、おなかの底がぽかぽかと温かくなってくるのを感じながら、わたしは意識を手放した。




憂き夜の子守唄
(20190717→0818改題)



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