なんでもない
世話されるのは好きだ、と彼の人は言う。
初夏が歩み寄ってくる音がする。桜の花弁たちも既に枝を離れ土に紛れて、新緑の葉へと姿を変えていた。
少し陽の強い日だった。昇り始めてしばらくした朝日が、障子越しに降り注いでいて。その温もりを背に浴びながら、一期一振は慣れた手付きで衣服を整えていく。
「すまんなあ」
しゅるり、さらり、と布が擦れる音の中に響く耳障りの良い穏やかな声。その主であり、今一期一振が着衣の手伝いをしている相手でもある三日月宗近は、少し眠たげな目をしたままふんわりと微笑んだ。その美しいかんばせは、柔らかに差し込む光に包まれて、より一層輝いているようで。一期一振は慌てて視線を衣服へと戻した。
「いえ、お気になさらず。慣れておりますし」
「そうなのか」
「寝ぼけた弟たちによくやっています」
「ははは、そうだな、一期は兄であったな」
そう肩を揺らして笑っている。
そもそも、一期一振が何故三日月に着付けを行っているのか。
この本丸にいる者達は、毎朝起きて身支度を済ませてから大広間に集まって、全員で朝食を摂ったり審神者から連絡を受けたりする習慣がある。特にその日に出陣の予定がある者は、戦衣装に着替えてから来る必要があった。
今朝、三日月がまだ部屋から出てこないと、今日出陣をする弟達の身支度を手伝い終えて手持ち無沙汰にしていた一期一振に、審神者がそう声をかけてきた。きっとまだ起きていないのだろう、とも。それは決して珍しい話ではない。非常にマイペースな性格で知られる三日月は起きだしてくるのが遅く、大抵は誰かしらが彼を起こしに行くことになる。朝が弱いというわけではないらしい。ただ、人の身を得てから、『布団』を大層気に入ってしまったのだと審神者が言っていた。
起こしに行ってもらえるか、と審神者に頼まれ三日月の部屋へ足を運び。
三日月の身を起こさせ、では広間でお待ちしております、と立ち去ろうとした一期一振は、彼の手によって引き止められたのだ。
着替えを手伝ってほしい、と。
「服の方は、終わりましたよ」
衣服を着付けて、全ての装飾を付け終わり、肩口や襟元を整えてから三日月にそう伝える。
「ああ。あとは、これも頼んでいいか」
一人では難しくてな。そう言って三日月が渡してきたのは、金の房紐が付いた髪飾り。戦衣装を身に付ける時一緒にいつも身に付けているものだったな、と一期一振は思い返した。
それを三日月の手から受け取り彼の背後へと回る。形の良い頭に手を回すと、絹より滑らかで艶やかな黒髪が手元に触れて流れていく。
本当に、綺麗な刀だ。
「あっははは」
と、不意に彼が笑い声を上げるものだから、少し驚いた。
三日月はこちらを向くように首を回し、よく浮かべている、月光のような柔らかい笑みを見せてきた。
「……声に出ていましたか?」
「一期は正直者だなぁ」
「す、すみません」
「いや。気にすることではないさ」
そう言ってまた笑う。一期一振もつられて照れの混じった笑いが漏れた。
一期一振はまだこの本丸に来て日が浅いのだが、それでも三日月がよく笑う人物であるということは、既に把握している。こうして実際に接している時も、誰かと話しているのを遠目で見ている時も、ふと見ると彼は笑顔でいるのだ。それを見て懐かしい安心感が胸に来るのは何故だろうか。
きゅ、と髪飾りを括りつけ、紐の上にふわりと重なった毛束を解放させて整える。
これで身支度は全て終わりだ。
そうしてみるともう三日月は、いつも見ている『三日月宗近』だった。
「はい、終わりましたよ」
「うん。助かったぞ、一期」
ありがとう、と動く彼の口。そしてその次にこう言う。
「やはりお前に世話されるのは好きだ」
言葉は一期一振の目を捉えながら送っているのに、彼の中の『三日月』は、一期一振の向こうを照らしているように思えて。
一期一振は後ろを振り向きそうになった。だが、既の所で踏み止まる。
違う、違う。と、ゆるやかに波紋の広がり始めた心を抑えつけた。
「……三日月殿?」
「ああ……いや。朝餉の場に行かねばな」
はっとした頃には、もう三日月はいつもの笑みを浮かべていた。けれどぼんやりした目で見た彼の少し動揺した表情は、脳の裏側にメモ書きのように貼り付けられる。
一期一振は、それに何を言うことも出来ず、ただ肯定の返事をするのみで。
鴨居をくぐり歩き出そうとして、彼の手を取った。
「一期」
その行動を、声をかけられて初めて自覚する。まるでいつもしていたかのような、手癖のような、そんな感覚だった。全くの無意識で、少し頭が回らない。
「あれ……、も、申し訳ない。つい」
「あっはっは。一期はどこまでも世話焼きなのだな」
「そのようですね……」
三日月が笑ってくれて良かったと、つい安心して胸を撫で下ろした。思えば、いつも彼の笑顔に甘えている自分がいて――。
――いつも?いつもとはいつだ。彼の事を見ていたことはあったものの、こうして長い間会話をして、ましてや世話を焼いたことなんて今が初めてのはずだ。
またか。また、あの既視感だ。彼を見ていると起こる、自分であって自分でない感覚。一期一振が知っていて、一期一振が知らない感情。
霧の濃い戦場で、自分ではない一期一振が刀を振るっている。だがいくら刀が空を切っても、切れ間一つ入ることはない。頭のてっぺんから足の爪先までそれは余すことなく纏わり付いてくる。
脳の中まで霧がかかっていて、思い出せない――。
「一期よ」
そんな流れだした思考は、優しく肩に手を置かれたような声と、握り返された手の感覚に塞き止められた。
「お前まで遅れてしまう」
彼の顔を見る。変わらず浮かべている美しい笑みに、そうあまり考えなくてもいいと、宥められている気がして。
やはり甘えてしまう。敵わない相手だと。
彼が三日月宗近だから、そう思う。自分が今「一期一振」だから、そう思う。
それに短く返事をして、彼の隣に並び、歩き出した。
世話するのは好きだ、と私は思う。
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