「紙です。」
紙です。
何かありそうで、何もない、紙です。
今日も変わらず世界は回っております。今や情報媒体といえばパソコンやスマートフォン、タブレットなどが主流ですが、そんなハイテクノロジーがデフォルトになったニュージェネレーションでも、紙というものは、人間にとって欠かせない存在だそうです。ありがたいかぎりです。
さて、わたくしが今、何をしているのかといえば、散らばっております。無造作です。オシャレも芸術性もないのです。ただ地面の上にいるだけなのです。
わたくしは先ほどまで、人間に抱えられておりました。彼女は小説家です。わたくしは、その彼女の小説の原稿を写された紙だったというわけです。では何故、そんなわたくしが、こうやって地面に放り出されているのでしょうか。
べつに、答えは簡単です。彼女がうっかりしただけなのです。問題があるとすれば、
「ああ、眼鏡落としちゃった。眼鏡、眼鏡」
彼女がおおよそ三徹目であるという点でしょうか。
何故そこまでギリギリを生きているのかと言われれば、もう本日が締切だというのに、四日前まで原稿が真っ白だったからですね。極限です。
「うう、眼鏡、うう、何も見えない……」
さらに問題があるとすれば、彼女はそもそも眼鏡をかけていないという点です。彼女は目が良いです。眼鏡なんて要りません。素晴らしいですね。だから眼鏡なんて端から落としていないんですけれどもね。
「お母さん、どうしたの?」
そこに、彼女の娘さんがやってきました。彼女はいい子です。賢く思いやりがあります。彼女はあたふたしている母を見かねて声をかけたのでしょう。そんな娘さんに、お母さんが答えます。
「眼鏡を落としちゃったのよ」
いえ、落としたのは紙ですけどね。
すると、娘さんは、ちょうど運んでいた燃えないゴミの袋を、その手からどさりと落としました。何が衝撃だったのでしょう。
「そんな、お母さんの目は、もう、戻らないの……!?」
大げさです。話が飛びすぎです。ファンタジー小説でも赤が入るレベルですので、こんな無理やりな話の展開には持っていかないようにしましょう。
娘さんは膝をついて、すっかり途方に暮れてしまいました。彼女はいい子です。いい子なんだと思います。思いやりもあります。賢いのかはわからなくなってきました。
お母さんは、眼鏡を(紙ですが)探す手を止めて、娘さんの声に答えました。
「……そうね。もう戻らないかもしれない。あの人みたいにね」
その話、乗るんですね。
「そっか……お父さん……」
しかし、流れが変わってきました。このお家は母子家庭だったのですね。嫌なことを思い出させてしまいました。謎の罪悪感が芽生えています。
「いつも、初デートの日を思い出すわ。まだ学生だった。車もなくて、二人で自転車に乗ってね。田舎だから何もなくて、長いこと乗った先もただの見通しのいい草原なのよ。それで景色を眺めるだけだったけど、それだけでも楽しかったわ。あの時見た入道雲は、人生で一番きれいだった」
思い出したかのように、セミのじりじり鳴く声が、廊下に響きます。きっとその場所も、こんな音に包まれていたのでしょう。
「大人になって結婚して、あなたを生んで、……それからすぐだったのよ。本当に突然で……叶うなら、もう一度でいいから、顔が見たいわ……」
娘さんは、お母さんの話を聞いて涙ぐんでいます。わたくしもちょっとしんみりしてまいりました。涙は出ません。紙ですので、滲んでしまいますから。
と、各々が何故か感傷に浸りはじめた謎の空間が出来上がりましたが、そこへ一人の男性がひょっこりと顔を出したことで、この話は収束するのです。
「どうした? 俺の話か?」
いや、お父さん、がっつりご存命じゃないですか。
全身全霊でそう突っ込んでしまいました。ですがただの紙なので、喋ることはできません。わたくしの突っ込みは虚空へと消えていきました。
先ほどまで架空の思い出に浸っていたその母子は、お父さんが登場すると、ケロッとした顔をしてスッと立ち上がり、何事もなかったかのようにリビングに消えていきました。わたくしは依然、床に散らばったままです。まあ、生きていれば、こういうこともあるのでしょう。いやはや、紙というものは物知りなのですが、まだまだ知らないことは多いですね。いやはや。
――ああ、故郷の森に、帰りたい。
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「2枚のイラストを元に書く」というお題で書いたもの。
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