短編 - asteroid | ナノ

りんごの目をした怪物(にんげん)たち




 お風呂は、嫌いだ。
 狭い浴槽の中、湯に浸した足が視界に映る。嫌でも目に付く、膝に残る大きなミミズ腫れの跡。
 見るに見かねて立ち上がり、鏡の前で髪を洗えば、今度は足なんか比じゃないほどに、『私』が見えてくる。罵る激声が、蔑む視線が、笑いものにされたあの記憶が、見えない視界をいいことに、引っ切り無しに私を殴りつけてくるのだ。どうにかこの水流に呑まれて消えていってはくれないだろうか。幾度と願えども、流れ落ちるのは洗髪剤だけで、シャワーは何も解決してくれない。
 やっとのことで洗い終え顔を上げれば、濡れて纏まった長い前髪の隙間から、すべての元凶が鏡越しに私を覗いていた。

 ――私の目は、緑色をしている。
 緑の目(グリーンアイ)。世界でも約2%の人間しか持たない希少な目だ。アジア人ともなれば、その確率は粉砂糖の山から特定の一粒をつまみ上げるようなものである。エメラルドが丸ごと埋め込まれたような私の目を、両親は驚きながらも綺麗だと褒めてくれた。私もこれは美しいものなのだと思っていた。それが急変させられたのは、小学校に入ってからだった。
 怪物。それが私に付けられた、初めてのあだ名。
 小学校に入っても、当然こんな目を持つのは私しかいない。綺麗だね、と言ってくれた子もいた。けれどもこの目の希少性は、やがて周囲から異質性と捉えられ、迫害の対象となっていったのである。
 誰もそんな目なんてしてない。お前は変なんだ。きっと人間じゃないんだ。化物だ。人の形をした怪物だ。
 引っ込み思案な性格だった私は、そんな心無い言葉や偶然を装った暴力に対して、何も言えなくなってしまった。
 家に帰れば、両親はこの目ごと私を愛でてくれる。
 それでも私は、何も言えなかった。


 制服の袖に腕を通す。
 そうやって怪物として過ごしてきた私は、先月中学校を卒業した。中学校なんて小学校と変わらない。むしろより一層酷い日々を、私はやはり黙って過ごしてきた。
 そんな動物園を抜け出して、晴れて今日は高校の入学式だ。
 高校になれば、顔ぶれが大きく変わる。少しでも多く知っている人間を減らそうと、実家から遠い高校を受験した。その分通学は大変だが、時間を支払って一時でも平穏が得られるなら安いものだ。

 ……なんて思っていたのだが、その距離の遠さが仇となった。
 人並みに緊張していた私は、焦って逆方向の特急列車に間違えて乗ってしまったのである。
 どんぶらこどんぶらこと運ばれて、気付けば全く知らない土地に私は立っていた。電車のアナウンスから聞こえる駅名がおかしいと気付いたのは、乗車してしばらく経ってからで――ああ、つくづく、やらかした。
 元々遠かった学校が、さらに彼方へ行ってしまった。もう絶対入学式には間に合わない。
 完全に途方に暮れた私は、とりあえず飲み物でも口にして気を紛らわせようと思い、ふらふらと自販機へと近寄った。もう春先だが、まだ温かいココアが売っている。ターゲットを決め、小銭を財布から取り出し投入口へ持っていこうとする。と、指先から銀色の硬貨が、するりと抜けていった。
 金属音が駅のホームで小さく響く。幸いにも自販機の下へは入っていかなかった。しっかりしなければと思いながら背中を丸めたその時、私がしゃがみ込むより先に、誰かの手がその百円玉を拾い上げた。思わず弾かれたように視線を上げる。そこに居たのは、ブレザーを着た男子学生だった。

 男性にしては少し長めの黒髪。だがよく見ると根本は灰色がかっている。顔はほとんど前髪で隠れされており、特に両目などは、底の底へと仕舞ってあるようにさえ見えた。鏡合わせのような、既視感だ。
「あの、どうぞ」
 耳馴染みの良い中低音の声をしているが、その声色には初めて音を出したスピーカーのような拙さを孕んでいる。同じくらいギクシャクしながら、差し出された百円玉を受け取った。真冬の雪原を思い起こすような、透き通るほどの白さをしたその手に、少しだけ目がくらっとする。
「……ありがとう」
 彼も私も、屈めていた姿勢を戻した。そうすると相手の全貌が見えてくる。あれ、と彼の着ているブレザーに既視感を覚えた。私が通う学校と同じものではないか、と。
 そんな疑問が湧いたのと、運命の瞬間が訪れたのは、ほぼ同時だった。

 ビュウッ、

 髪を大きく乱すほどの強い風が、ホームを通り過ぎる。
 風が吹く時はいつも反射的に目を伏せるのだが、彼の姿に目を凝らしていた私は、この時咄嗟に反応できなかった。
 いけない。目を閉じなければ。
 そう思ったのは一瞬で、私はその後、瞬きすらできなかった。

 赤い目が、そこにあったからだ。



 気付けば、お風呂に入っていた。
 私は今日、何をしていたのだろう。駅のホームで、あの彼の目を見て――その先の記憶がほとんどない。薄っすらと覚えているのは、あの後丁度電車がきて、彼が逃げるようにして車両のドアへ駆け込んでいったことぐらいだ。
 ぴちゃん、と水滴の呑まれる音が響く。
 あの厚い前髪の下に眠っていたのは、赤々しい赤だった。ルビー、ガーネット、レッドスピネル――いや違う、どれも違う。きっとあれは、彼にしか持てないもので。
 ああ、なんだか、胸の内がそわそわする。
 どうにもむず痒くなって、咄嗟に湯船を出た。早く洗って出てしまおう。そう思って、髪を洗うために両目を閉じる。するとどうだ。あの鮮烈な赤がまぶたの裏に張り付いて、見えない視界の更に上から覆いかぶさってくるではないか。
 もう髪なんて知ったことかとぐしゃぐしゃに洗い上げ、顔を濡らす湯を手で乱暴に拭った。のろのろと頭を上げると、いつもと変わらない己の目が鏡に映っている。けれども今は、私の緑の裏側に彼の赤が透けて見える気がして、いよいよか細い心臓にトドメを刺されたのだった。

 ああ、いつも浴びるお湯って、こんなに熱かったっけ――。



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三題噺(お風呂、硬貨、制服)を元に書いたもの。






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