生に抱擁を、死にくちづけを - asteroid | ナノ

04 2/3



 ちいさくすすり泣く声が、聞こえる。
 真っ先に目についたのは白い壁で、やがてその手前に置かれた木製の調理テーブルが見えてきた。テーブルの隣には釜戸があって、その上で沸騰したお湯がカタカタと大きな鍋を揺すっている。
 ここは、よく知っている。いつも前に立っている、慣れ親しんだ我が家の台所だ。そして、この静かな泣声の正体も。
 調理テーブルの前で俯く一人の少女。癖の強いブロンドの髪を短く結い、白くて丸い前掛けのエプロンを腰に巻いた後ろ姿は、
(昔の、私だ)
 私は、“私”を眺めていた。

 傍らにはいつかの母が居る。母は、手を止めて泣くことしかできなくなってしまった“私”の元へ歩み寄って、そして両手をそっと肩へ乗せていた。
 “私”の前にある調理テーブルに置かれたまな板の上には、皮を剥いたジャガイモがいくつか転がっていて、丁寧に剥いてはいるが、どれもこれも小さい。近くにあった皮を見れば、そこには実がごっそりついたままだった。そして“私”の左手には、一際大きなジャガイモが握られたままでいる。
 母は肩に乗せていた右手をフっと離して、“私”の右手首にそっと添えた。添えられた手首の先に視線を動かす。右手の親指に見えたのは、じわりと滲み出す赤。
 ――そうか、あそこにいるのは、“ジャガイモの皮むきで指を切って泣いたかつての私”なのか。
「皮むき、まだ早かったみたいね。今傷口塞ぐから。大丈夫よ」
 母は泣き止まない“私”を宥めるように口どけのいい声色でそう言いながら、“私”の肩をさすった。戸棚から薬箱を下ろし、中からガーゼとテープと消毒液を取り出すと、再び“私”の右手を取る。傷口に消毒液を染み込ませて、ガーゼを巻いて患部を塞ぎ、テープで固定。うん、と頷く母。
 それでも“私”は泣くのをやめなかった。白いガーゼを巻かれた自分の指を見て、相も変わらずぐずぐず言っている。母がどうしたの、と問うと、“私”はしゃくり上げながら少しずつ答えた。
「今日、わたしがっ、作る、って言った、のにっ、」
「今日はお母さんと一緒に作りましょう。手伝えるところ、手伝ってくれれば大丈夫よ」
 母は“私”に目線を合わせながら説得しようとするが、なおも“私”は納得しようとはせず、こう続ける。
「でも、でも、お兄ちゃんにいっちゃった」
 私が、一人で作るって。
 聞いた瞬間、すべて思い出した。この時、兄の誕生日祝いの食事を、私が一人で作るって言い出したんだった。確か、7歳の頃の話だ。
 “私”の話を聞いた母は可笑しそうに笑う。まさか、と。
「それを破ったからって、お兄ちゃん怒らないわよ」
 母の言葉に、そうだよ、と半ば反射的に声が出た。兄はそんなことで私に当たったりはしない。あんまり感情を表に出さないから不機嫌そうに見える時もあるけれど、家族のことをしっかり考えているし、何よりも大事にしてる。でも、この時の“私”は、まだ怖がる気持ちを捨てきれなかったのかもしれない。
 そう、思った直後、

「母さんの言う通り、俺は怒んないから。……――ほら、よくできてる」

 隣から兄の声がした、と気付いた時には、既に私は食卓についていた。声がした方向には兄が座っていて、私の前には母、母の隣には父が座っている。何より私は“私”じゃなくなっていて、私は今の私として、ここにいた。
 慌てて卓上を見ると、ずらりと料理が並んでいる。でも、何故かはっきり見ることができない。それが料理だということはわかっているのに、料理の形を取れていないような、そんな曖昧さを保ったままそこにある。
 でもこれは、全部私が今作ったんだ。何故かそう確信が持てた。そう思うと、さっきまでの“私”が報われた気がする。
「さ、食べましょ!」
 母がそう切り出して、食事前のお祈りを始める。その後は、普段どおりに食事を取った。私が作ったこの料理がおいしいだの、ここが良くできてるだの、どこを頑張ったのだの、そんなことを口にしながら滞りなく食べ進んで、あっという間に皆の食器は空になっていた。食事後のお祈りを終えると、兄は満足げな顔をしながら、私の頭に手を置く。
「また来年も頼むよ、ハルベラ」
 そう言われながら、兄に頭をゆるゆると撫でられる。やわらかい手が髪の上を何度もすべっていく。私が大人になるにつれてこうして頭を撫でられることも減っていたからか、今になってみるとなんだかむず痒い気分だ。
 でも、この上なく気持ちいい。
 また頑張るね、と目を細めながらそれに答えた。私というひとつの器に、何か暖かいものが溜まっていく感覚。お腹以上に心が満ち満ちて、どんどんここから身動きを取りたくなくなっていく。いっそ置物にでもなりたい気分だ。

 父と母は、そんな私たちをしばらく穏やかな眼差しで見つめていた。しかし、ずっとこのままでいたいと思う私の気持ちとは裏腹に、彼らは椅子を引いて立ち上がる。私たちはもう行くわね、と別れの言葉まで口にして。
「え、……え、行くって、どこに」
 そう思わず声を上げて、私は机から身を乗り出した。二人はただ微笑むばかりで何も答えてくれない。兄は私を撫でる手を止めて二人を見つめるが、それ以上何も言おうとしない。
 やがて父と母は、玄関に繋がる扉がある方へと向かっていく。
 外――二人は、外に向かう気なのか。
 そう気付いて、咄嗟に窓の外を見た私は、己の目を疑った。
「――!!」
 いつもは明るい日光が差し込んでくる大きな窓。そこから見えるのは、ただ一面の、
(赤い、赤い――)
 ただ一面の、赤。
 本来見える外の景色は一切なく、ただそこには、赤色があった。光もなければ影もなく、まるで世界のすべてが“赤”だけになって、それ以外は何もかも消えてしまったかのようで。

 ……危険だ。危険だ。あれは外じゃない。あれは世界じゃない。あそこに帰る場所はない。あそこに、出てはいけない。

 そう心が繰り返し繰り返し訴える。焦る気持ちは早馬となって私の中を駆け巡り、蹄の音が響いて止まない。すぐさま私は二人を追いかけようと椅子を引こうとした。――したのに、椅子がびくともしない。何度かガタガタとテーブルを揺さぶってから、ようやく兄が椅子を背から押さえて、私を止めているのだと気付いた。抗議しようと兄の方を振り向くと、彼はただ無言で首を振るばかりだ。
 どうして、と口から零れる。その言葉は誰の心にも留まらずに、地に堕ちて静かにひび割れた。去りゆく父と母の背中はどんどん小さくなって、やがて二人は扉まで辿り着いてしまう。開いた先の景色は、窓の外と同じ。二つの生命は、得体の知れない“赤”の先へと呆気なく消えていった。
 声もかけられず、引き止めることもできず、ただ呆然とすることしかできなくなって、さながら私は人でなしに成り果ててしまったようで。人のかたちをした人でなしは、人形とでも言うべきなのだろうか。
 それでも兄は、世界でただ一人だけの兄は、人形になるだけの私の頭を、また大事そうに撫でてくれる。でも、それでわかってしまった。とん、と頭を軽く一回叩かれる。それが別れのあいさつだった。
 待ってほしい、行かないでほしい、もう少しだけここにいてほしい。
 そうはっきり言ったつもりなのに、とうとう口から言葉を紡ぐこともできなくなっていた。せめて今度こそ去る背中を追いかけようとするも、手足はびくともしない。私という存在が、見えない糸に縫い留められているかのような感覚。
 とうとう私は、本物の人形になったようだ。
 家族も、帰る場所も、人としての在り方も、何もかもなくなってしまった。いつものリビングルームの、いつもの食卓に、私の抜け殻だけが、ぽつねんと取り残されている。
 卓上にはもう、何も残っていなかった。

 

「…………ん、ん」
 視界が開けると、真っ先に一面の赤が目に飛び込んできた。
 先程までの光景が蘇り思わず肩を震わせるが、やがてそれがソファにかかった赤い布カバーであることに気付き、ほっと胸を撫で下ろした。
 けれど今は赤を目に入れたくなくて、ゴロンと反対側に寝返りを打った。そこにはいつものリビングルームがある。窓の外にも、きちんと村の景色がある。在ってほしい、私の日常はまだそこにあった。あれは紛れもなくただの夢だ。
(にしても、寝ちゃってたのか。……嫌な夢だったな)
 はあ、と思わずため息をつく。ここまで夢見が悪いのも久しぶりだ。
 私は普段夢を見ない。見たとしてもメチャクチャだけど楽しい夢ばかりで、今見ていたような悪夢を見ることは滅多になかった。だから余計に悪夢は見たくない、と思う。夢は夢だからこそ、楽しくあるべきなのに。
 けれど――今の夢は、単なる悪夢なんだろうか?
 ……。
(……ううん)
 頭に過った予感を振り払うために身体を起こす。ソファのスプリングがギシッと大きな音を立てた。一眠りしてもまだ身体は重く、急に動いたからか頭痛も増している。そうだ、私はまだ不調という深い森を抜け出せていないのだから。
(こんな変な気分になるのも、全部その所為だわ)
 不安から逃げるかのようにそう決めつけて、ソファに手を突き身体の向きを変えて腰掛ける。そうしてから、ふと右手の白いガーゼが目についた。寝る前に負った傷だ。

 最後に料理で怪我をしたのはいつだったか、その答えを夢がくれた。5年前、兄の誕生日祝いの夕食を作ろうとしたあの時が最後だったのだ。あの頃の私は、ようやく母から一通りの調理方法を教わったばかりで、ただそれだけなのに自分の実力をひどく過信していた。あれはその結果が招いたもの。言わば自業自得だったとも言える。……未だに油断するとやってしまう、ということがわかってしまったけれど。
(……怪我……)
 自分の失態を思い出すと同時に、夢で見た親指の傷が思い浮かんだ。今の自分の右手にも、全く同じ場所に全く同じ原因の傷がある。それを覆うガーゼをなんとなしに眺めてから、テープをそっと外して素肌を晒してみる。
 予想通り、傷はもう跡形もなく消えていた。
 あの時もそうだった。皮むきに失敗して傷が付いた後、寝る前にガーゼを替えようとした時には既に傷跡すらなく、不思議に思って母に訊いて、初めて私は元々そういう“体質”なのだと知ったのだ。生まれた時からそうだったらしいが、何故傷の治りがここまで早いのか、医者を訪ねても結局よくわからないままだったと言う。それ以上のことは母は言いたがらなかった。私も必要以上に問うことはせず、“そういうもの”なんだと受け入れて生きてきたけれど。

 そんなことを考えて、しばらくぼうっと右手の親指を眺めた後、相変わらず暗い窓の外に目をやった。もうとっくに午後を過ぎた頃合いだが、雨が降っているようには見えない。母は今何をしているだろう。玄関の掃除にでも出てるかもしれない。
 傷も治ったしそろそろ顔を見せに行こうか、とソファを立ち上がろうとしたその時、まさしく玄関の方からドタドタッと騒がしい足音が聞こえてきた。誰だろうと思わず身構えたが、ドアを開けたのは、丁度会いに行こうとしていた母その人だ。しかし、話しかけようと今度こそ立ち上がろうとする前に、母が私の元へと駆け寄って、問答無用で手を掴んで引っ張ってきた。
「ちょ、ちょっと、何かあったの?」
 苦笑しながらそう問いかける。しかし、笑う私とは正反対に、母の顔には明確な焦りが浮かんでいた。驚いて笑みが少し引く。手首を握るその力の強さにようやく気付いて、ただ事ではない雰囲気を察した。
「逃げるのよ! 早く!!」
「え、に、逃げるって、何? 何から!?」
 普段滅多に出さないような声でそう叫ぶ母に、私も焦って大きな声で返してしまう。けれど、次に飛び出した母の言葉で、私は嫌でも事態の深刻さを理解できてしまった。

「魔物が――魔物の群が、村に向かってる!!」

 夢は、現になろうとしていた。
 


prev / next
[ back to top ]

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -