「どうぞ、上がって。ちょっと散らかってるけど」 「おじゃましまーす……」 右手には部屋の鍵、左手に学生鞄。几帳面に脱いだ靴を揃え、少年は柔和な笑みで俺を招き入れてくれた。 甘い誘いにありがたく応じたものの、雨で湿った靴を脱がす手は不恰好に震えた。地に足がつかないような、不安だか戸惑いだかが背中で踊っている。 窓を叩く雨の音が、どうしてこうなったんだと頭を抱える俺を、思考の崖っぷちまで追いつめていった。 ぶつかっても雑にしか謝らずに去ったヤツの学生証をわざわざ届けてくれた少年、ジュード・マティスが住まう部屋は、タリム医学校の生徒が多く入居している借家の一室だった。 マティス少年は「ちょっと散らかっている」と言ったが、本棚は綺麗に背表紙が揃えられているし、床に物が散乱しているわけでもない。敢えて挙げるなら机にテキストが積まれているくらいか。 閉校の時間だと医学校を追い出されてすぐ、予報にない雨が降りだした。 慌てて軒下に駆けこみ、どうせだからとマティスの部屋に招かれた、のだが。 あまりに気落ちした俺を気遣ったマティスに、白衣に付着した灰を指さして「家」と呟いた瞬間の、少年の顔は暫く忘れられそうにない。 「はい、どうぞ使って?」 「あ、ありがと」 受け取ったタオルで、まずは鞄の水滴を拭い、ズボンの湿気をとって、締めに髪をぱたぱたと叩く。柔軟剤の良い香りが鼻腔を満たした。 元からあまり濡れていなかったけれど、これで気兼ねなく床に座れる。中央のラグに腰を下ろすと、椅子やベッドでもいいのに、とマティスが笑んだ。 「ほんとありがとう、助かったよ。流石に雨の中で野宿はキツかったかな……」 探せば雨宿りできる場所はあるだろうけど、やはり気の持ちようが違うというか。 正直、声をかけてもらっただけでも、マティス少年には救われたんだ。一人じゃ陰鬱としているばかりだったろうし。 そこにマティス少年は、落し物を届けてくれたばかりか、その上初対面の人間を雨宿りさせてくれるなんて。……その、ありがたいけど、ちょっとだけ心配だ。厄介になってる身で言えたことじゃないけど。 八割の感謝と二割の心配を込めて告げると、それなんだけどと、マティスはどこか言いづらそうに頬を掻いた。 「僕、前からキミのこと知ってたんだ」 「え」 「大講義のときとか、よく隣に座ってたんだけど……」 「えっ」 ――あ、やっぱり気付いてなかったんだ。 そう、マティス少年から苦笑しながら追い打ちをかけられた。 世界的に有名なタリム医学校とはいえ、学科を問わない授業の大講義室後方は少し騒がしい。その喧噪から逃れるべく、自分はいつも前列中央の大体定位置に腰かけていた。 その近辺に座る人間は固定化されることが多いようで、前方の光景はいつも変わらず、特に注目することも無かった……のだが。 例にもれず、隣りの席など気にかけたことが無かった。それが有名なジュード・マティスだったとは。 「そ、れなら、俺だってマティスのこと知ってたし……!」 「え……?」 「入学当初から学年トップを独占してるって、どの学科でも有名だよ。順位表とかでよく名前見るし」 「そ、そう」 頬を掻くのは、マティスの癖だろうか。照れたように少し笑い、それから少し、ほんの少しだけ眉が寄った。 「マティス?」 「あ……え、えっと。ベイン君は、これからどうするの……?」 「それが、うん……」 教授に訳を話して研究室での寝泊りを許してもらえないかとも考えたが、生憎自分の担当教授は規則に厳格だ。難しい顔をしながらも首を縦に振ることはないだろう。 問題は、一切の家財と共に、切りつめていた財産さえも灰と化したことだ。 実家に連絡すれば、金銭は送ってくれるだろう。けれど家だって裕福ではない。療養中の母に相談などできない。 ――ガキのつまらない意地、と言われるだろうか。それでも、曲げたくない意地、だ。 何にしろ、明日からでも家探しを急がねばならない。最低限としては雨風が凌げればいいのだ。シャワーだって、サークルなどが利用している学校のシャワー室を借りればいいし。 一番いいのは、少ない友人の厄介になること、なんだけどなあ。みなそろそろ帰省する頃だろうが、じゃあ明日からすぐ、というのは難しい。 「ねえ、」 机とセットの椅子から、マティスの声が降ってきた。 顔だけ向けて見上げれば、目を泳がせ、どこかそわそわとしている少年がいる。少年と言っても、俺と同い年なのだけど。 「よかったら、住む家が見つかるまで、ここに住まない?」 「マティスと?」 ぽっかりと、魚よろしく口が開いた。 それはあまりに唐突で、選択肢の候補にすら挙がっていなかったのだ。反応できずにいる俺に対して、何故だかマティスの方がわたわたと慌てだす。 「ほ、ほら。外は危ないし、これから寒くなるし……。二人じゃ少し狭いかもしれないけど……」 「……えーと、」 「あ、イヤだったら言ってね! 無理強いとかするつもりはないんだ。ただ、」 「や、そうじゃないんだけど」 少し戸惑いながら止めに入れば、マティス少年はしゅんと小さくなってしまう。 驚いたのはこっちだけど、発案者自身がこんなに慌てるってのもなあ。緊張がパッと弾けてしまった気分だ。 ちらりとこちらを伺ってくる様子に、いよいよ笑いが込み上げてきた。微笑ましいとか、感心とか、面白いなとか、そういった感じだと思う。 「マティスって、なんかやわらかいな」 「や、やわらかい?」 「いや、別に悪い意味じゃないんだ。やさしいな、て」 例えば目の前に困ってる人がいたら、手を差し延べずにはいられないのだろう。場合によっては無防備きわまりないし、不適切な行為になる可能性もあるのだろうが、それがジュード・マティスなのだ。きっと。 何だかほっとけないと思わせるような人物だ。いつか詐欺に遭わなければいいけれど。 まあそれはともかくとして。 ただ、俺も初対面の相手にそう図々しくはなれないのだ。相手から誘ってもらっていても、今回ばかりはなぁ。かといって無下に断るのも忍びないんだけども。 「マティスの気遣いはすごく嬉しいんだ、ほんとありがとう。そんで、ちょっとだけ甘えさせてもらって、今日、泊ってってもいいかな……?」 「あ、うん! もちろん!」 精一杯ぼやかして、花咲く笑顔と共に本日の寝床を頂いた。 思えば、都会で一人暮らしを送りはじめたものの、こうして同級生の家に泊まったり、夜更かしをすることもなかった。 自分の出無精が相当なのか、ともかく、親睦を深めるイベントは初めてで。少し歪んだ形だけど、この状況にとてもわくわくしていた。家や財の一切が燃えてしまったなど、遠い夢であるかのように。 半ば成り行きとノリで決まってしまって、この夜は形容しがたい間柄だけど、マティスとは友達になりたいと思った。ああ、なれるかな。なれるといいなあ。 まあそのあと、ベッドか床かで押し問答が繰り広げられ、それもまた別の話に持ち込めるレベルには長かったのだけど。 '120206 △ back ▽ |