「……よし」


 黒匣の整備を終え、アレイス──アレクは額ににじむ汗を拭った。一人で整備して良いと許可を得るまでに三ヶ月、処置の補佐を許可されるのにまた三ヶ月掛かったが、それなりに扱えるようにはなってきたらしい。
 初めこそ、黒匣の使用を察知したミラが飛び込んできやしないかと危惧していたが、流石にここまで小規模では、ミラも分からないらしい。もしくは、より多くの精霊が死んでいる場所があるのか。どちらにせよ、この一年、再びあの紅玉にお目にかかることはなかった。

 名前をアレクと偽り、ル・ロンドに滞在しておおよそ半年が経つ。
 今ではロランド亭よりもマティス医院で働くことが多く、内容は看護師に近い。とはいえ、医師ディラックはとにかく物事を割り切っているのか、俺が呼ばれるのは処置時ばかりだ。
 問診や受付は、マティス夫妻が忙しそうにこなしている。一度手伝いを申し出たものの、そんな余裕は無いだろうと逆に怒られてしまったのだから、ディラックさんの優しさは本当に分かりづらい。だから未だにジュードが距離を図り兼ねているんだろうか。

 時間と共に、ジュードはマティス家へ慣れていき、エリンさんから育児の悩みを聞くようになった。悩みといっても、医師の二人は自分で原因と対策を考えられる人間だ。エリンさんが困った風に、けれど幸せそうに語るのは、夜尿症だとか、ジュードの食べ物の好き嫌いとか、家族の思い出の話だ。
 俺はいつも、それをお茶菓子代わりに聞いていて、相槌を打つだけでいい。エリンさんは決まって最後に、いつも面倒を見てくれてありがとう、ジュードも喜んでいるわと礼を言ってくれる。俺は何もせず、ジュードが勝手に育っていってるだけだと言っても、エリンさんは譲らなかった。


「……ん?」


 かたん、と、背後で音がする。振り返ると、部屋の外からそっとこちらを覗き込む少年がいた。
 子供の、特に幼少期の成長は目覚しい。この半年でも身長が伸び、俺の膝丈を超え始めた。手を伸ばせばドアノブに届いて、家の外にも出て行けてしまう。3年とは、そのくらいの年月だ。


「レイ、おしごと終わった?」

「ジュード? 遊びに行ったんじゃなかったのか」

「う……ごめんなさい……」

「別に、謝ることじゃないだろ。今日はレイアと約束してないのか?」

「えと……今日、レイと遊びたい……」

「そうか。じゃあ、少しだけな」

「……! うん!」


 ジュードはぱっと顔を輝かせ、俺に駆け寄り、持参した本をそっと俺に差し出した。ニ・アケリアから持ってきた、あの医者リスの話だ。
 ジュードを膝に乗せ、後ろから抱え込むようにし、すっかり覚えただろう本を読み聞かせてやる。ジュードの親も医者だったなんて、面白い偶然だ。もしかしたら、ジュードはいつかマティス医院を継ぐ医者になるだろうか。きっと良い医者になるだろうと、つい、親気取りの欲目が出る。

 ふと、いつもは本に釘付けの瞳が、時折こちらを見ているのに気づいた。そわそわと落ち着かず、むしろ本の内容なんか聞こえていないかもしれない。
 一通り読み終えるころ、俺はジュードを座り直させて、琥珀色の目を覗き込んだ。ジュードはきょとりと瞬き、どこか不安げに、俺を見つめ返している。


「どうした、ジュード。何か、言いたいことあるんだろ?」

「……ん……」


 俺の催促にも、ジュードは唇を噤んで、なかなか話だそうとはしなかった。きっと必死に、言いたいことを整理しているんだろう。
 そうしてようやく絞り出された言葉は、途方に暮れたような声色をしていた。


「……レイは……おとうさんじゃ、ない」

「うん。……そうだな」

「レイア、レイを、おにーさんって言ってた。レイは、ぼくの……おにーさん?」


 ──胸を、鷲掴みされたような衝撃だった。

 住処に迎えた頃から、ずっと、父ではないと言い聞かせてきた。ジュードの中の父親という立場は、俺が借りてはいけないものだと。それでも所詮は一時的で、いつかは返上するものだからと、そう強く否定したことはなかった。
 けれど、兄は駄目だ。俺はお前の兄じゃない。

 そしてお前も、俺の弟じゃ、ない。



 突然の衝撃に言葉を失う。目を見開いて、黙ったままの俺に、ジュードは少しずつ表情を歪めていった。俺のシャツをぎゅうと握って、俯き、唇を噛み締めてしまう。
 少し……いや、しばらく悩んで、俺はジュードの小さな体を抱き寄せた。優しく宥めるように背中をさすってやっても、ジュードの体から力は抜けない。子供騙しで誤魔化されてくれない、聡い子だ。
 これは遠慮ではない。俺がジュードに初めて示す、明確な、拒絶だ。


「違うよ、ジュード。俺はお前の兄貴じゃない。それだけは、お前にもやれない」

「おにーさんじゃ、ない……」

「本当の家族じゃないけど……たぶんお前のこと、家族みたいに、大切に思ってる」


 純粋に慕ってくれたお前を、愛おしいと思う。生まれて間もなく両親と引き離され、見知らぬ人間に育てられた境遇を、かわいそうだと思う。その言葉に嘘などない。
 けれど、俺にとっての弟は、生涯でただ一人だ。

 黒髪の上に顎を乗せ、ゆっくりと、成長を確かめるように撫でてやる。ジュードがまだ赤ん坊の頃、寝付けずにぐずっていたから、不慣れながらも寝かしつけていたあのリズムで。
 少しずつ、少しずつ、力が抜けていく。そうして「……う、」と、小さな背中が大きく震えた。


「ジュード」

「う"〜〜……!!」

「……すまない、ジュード」


 大声を上げるでもなく、堪えるように涙をこぼす、その健気さが痛々しい。感情の吐き出し方が分からないのか、逆に、俺を困らせると思って押し込めているのか。
 せめて俺を非難してくれたなら、俺も気が楽になったかもしれない。けどそんなのは、俺のエゴだ。


「ごめんな」


 きっと、これまでずっと、ジュードに弟を重ねていた。それも今日で終わりだ。俺は俺で、ジュードはジュードだ。俺は家族への贖罪を、ジュードはマティス家の長男として、生きていかなくては。
 腕の力を緩めると、ジュードは一度強く抱きついて、するりと、俺の腕の中から逃れた。腕でぐいぐいと顔をぬぐい、そのまま、部屋の外へと駆けていく。そこには、呆然と佇む俺と、痛いほどの静寂だけが残った。

 いつも通りの資料室が、何倍も広く見えた。きっともう、かつてのように、少年が甘えてくることはないのだろう。分かっていたはずの結末を、なかなか飲み込まないでいる自分が、やけに滑稽だった。

 



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