キジル海漠を抜ける時も、どういう訳か、魔物とほとんど出会わなかった。というかすでに倒れていた。
 その全てに鎌鼬に襲われたような裂傷が見られるので、風の精霊術によるものと推測される。
 ふとある人物の顔が浮かび、流石に苦笑した。彼女に遣わされて、不満を言い散らす緑の精霊の姿が、目に浮かぶようだった。




「……レイ、あまいにおいする」

「ああ……ナップルか、パレンジっていう果物の匂いだな。美味いから、あとで分けてもらうか。……ジュード?」

「…………」


 顔を覗き込もうとしたが、ジュードはちらりと村の方を見ただけで、また俺の胸に顔を埋めてしまった。

 見えない支援者のおかげで、俺とジュードの消耗も少なく、無事ハ・ミルへとたどり着いた。
 しかし元々体調を崩しやすい子どもは、急な環境変化についていけず、到着して休んでいるうちに熱を出してしまった。
 海漠で獲った魚介類を元手に泊まる所を確保し、ようやく腰を落ち着けると、どっと四肢が重たくなる。
 たまに歩かせていたとはいえ、ハ・ミルまでジュードを抱えっぱなしだったから、全身に疲れが出た。戦闘も挟んでいたらと思うと気が遠くなる。
 無償の支援に頭が下がる思いだが、きっともう、会うこともないだろう。

 村人から好意でもらった、ナップルのジュースをジュードに飲ませて、俺自身も果実を齧る。
 簡単にでも栄養補給ができたところで、うとうとし始めたジュードと共に、提供されたベッドへと倒れこんだ。
 考え事に頭を働かせる暇もなく、すとんと、意識が落ちていく。


「……レイ……」

「……大丈夫だ、ジュード。大丈夫……大丈夫……」


 すり寄ってきた温もりを、腕の中に招き入れ、ゆっくりとその背中を撫でる。
 大丈夫だ。何も心配いらない。大丈夫、大丈夫。
 昔誰かにしてもらって、誰かにしてやっていたような、そんな仕草を思い出す。
 近づいているのは、出会いだろうか、別れだろうか。どちらであっても構わないか。俺のやる事は、変わらない。


 ハ・ミルを過ぎると、ジュードにも余裕が出てきたのか、道中の草木に興味を持つようになった。とはいえ、森には毒性を持つものも多く自生している。
 相変わらずほぼ戦闘が発生しないまま、海停へと到着し、一泊の後、俺とジュードはル・ロンド行きの船へと乗船した。

 宿を取る前に手紙を出しておく予定だったが、緊迫した世界情勢の影響で、あまり便は多くないらしい。
 次の寄港は明日だと言われたので、突然の訪問にはなってしまうが、仕方ないと割り切ることにした。


「レイ、レイ、みずがいっぱい……!」

「ああ、そうだな。海っていうんだ。危ないから、落ちないように気をつけろよ」

「うみ……!」


 元々好奇心旺盛なジュードは、調子が戻ってくると、きょろきょろと忙しなく目を動かし始める。あまり潮風に当たり続けるのも良くないので、物足りなさそうなジュードを抱え込み、船内へと戻る。
 正直、船の縁は苦手だ。かつて父と眺めた、灰色の水平線を思い出して、頭が痛くなってくる。
 守らなきゃならない存在が一緒だと、尚更。

 覚束ない足取りで、あてがわれた船室に入る。かなり狭い部屋の鍵を閉め、ジュードを足元に下ろすと、自身はベッドに寝転がった。
 天気は悪くないが、水面で反射する日の光に照らされるだけでも気が遠くなる。
 父が、俺自身が、暗い波に攫われる姿を、覚えている。


「……レイ……?」


 室内の観察に飽きたのか、ジュードがベッドサイドへ、へたへたと寄ってくる。
 マットにふくよかな頬を乗せ、こちらを伺うように見つめてくる瞳は、滑らかな琥珀色をしている。


「……ジュード」


 その頬をつついてやれば、きゃあと高い声で小さく笑い、彼は俺の手にすり寄った。それがなんともいじらしい。
 ジュードをベッド上に引き上げてやれば、しばらくはスプリングを楽しんでいたけれど、そのうち気持ちよさそうに寝入ってしまった。脳はまだ未発達なのか、船酔いはしていないようだ。

 親元へ返して、きっと長く続く友達もできて。これから先、ジュードはどんな少年に育つだろう。
 親気分兼兄貴分としては、今のまま素直に、すくすくと育ってほしいと思う。
 親の愛を十分に受け、本をよく読み、利発で優しい好青年になればいい。なんて、欲張りすぎだろうか。
 


 俺はきっと、実の弟に与えられなかったぶんを、罪滅ぼしの様にジュードへ捧げている。



 ◆



「ああっ、ジュード……ジュード……! ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさい……!」

「ジュード……!」


 エリンさんがジュードを抱きしめる姿が、いつか映像通信黒匣で見たホームドラマの様だと思った。泣き崩れる妻と、その腕にかきいだかれる息子に駆け寄り、ディラックさんが、感情を堪える様に眉を寄せている。
 愛する家族と突然引き離された悲しみは、痛いほどわかる。不可抗力とはいえ、ジュードを数年預かっていた俺は、大切な数年を奪ったという罪悪感すら覚えた。
 俺の家族は、俺と再会した時、同じように喜んでくれるだろうか。


「…………」

「ジュード、どうしたの?」


 エリンさんの声につられて、いつの間にか俯いていた顔を上げる。ジュードはエリンさんの腕の中で、じっと、俺の方を見上げていた。
 一見、落ち着いて見えるけれど、かなり戸惑っている。ジュードが家族と引き離されたのは、物心どころか人の区別すら難しい頃だ。きっともう、両親のことだって覚えていなかっただろう。俺が急に村から連れ出して、記憶にない人たちと引き合わされ、不安がっている。

 無意識のうちに、ここでゴールだと、思い込んでいた。そんな訳がなかったのに。
 俺が奪っていた時間分を取り戻すため、マティス家族にとっては、これからがスタートなのだ。
 小さな蜂蜜のような甘い瞳が、俺の様子を伺っているのを見て、心臓が嫌な音を立てた。


「ジュード。お前の、本当のお父さんとお母さんだよ」

「…………」


 俺は、うまく笑えていただろうか。
 ジュードは黙り込んだまま、少しだけ唇をかんだ。自分の服を、紅葉のような手で握りしめ、口をつぐむ。
 微動だにしない息子に、エリンさんは不安げに声をかけ続けるが、それを止めたのはディラックさんだった。彼は妻の肩を引き寄せ、その手からジュードを離してやる。
 それから、俺たちの間で棒立ちになったまま俯く息子の名前を、小さく呼んだ。


「ジュード。本当に……無事でよかった」

「……おとうさん……おかあさん……?」


 父親の表情は、緊張のせいか、あまり優しくは見えなかったけれど、ジュードは怖がらなかった。
 ジュードから手を伸ばし、ディラックさんの白衣を掴む。ちいさくて柔らかい手を、大人の手のひらがすっぽりと包んでしまって、とうとう俺からジュードが見えなくなった。

 この光景を、心待ちにしていたはずだ。それなのに俺は、この世界でたった一人きりになったような寂しさに苛まれている。実の家族を探さずにいるのは、自分の意思のはずなのに。
 これから、少しずつ、少しずつ、彼らは歩み寄っていくのだろう。そして俺はジュードにとって、父ではなく、兄でもない誰かに、なっていくのだ。




’180404



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