船から降りる時、大きく船が揺れてたたらを踏んだ。周りの人たちが不思議そうに一瞥してきたので、もしかすると、ただ目眩を起こしただけだったのかもしれない。
 リーゼ=マクシアでは、水平線に縦線を刻むような夕陽は見られない。代わりに、ラ・シュガル方面の水面は、朝焼けと宵のグラデーションが出来上がっていて、その美しさに何度息を飲んだことか。
 ル・ロンドから船に乗り、ここへ到着するまで、何を考えていただろう。事細かく順序を決めていた気もすれば、眠っていたような気もする。乗組員に肩を叩かれるまで、夕焼け色の港町にすら気づかなかった。

 俺を追い越して行った船乗りが、駆け寄ってきた娘を抱きとめている。父親に抱き上げられた少女は、ここ数日の出来事を、大切な父親へ、嬉しそうに話し始める。
 父は厳しい人だったけど、俺たちが勉強を頑張った時は、心から褒めてくれた。マティス医師には行方知れずと聞いたが、もしかしたら、俺のようにどこかで生き延びているかもしれない。
 温かな記憶を一つ思い出すだけで、どうしようもない寂寥感に襲われる。弟や母の無事を聞いてからは尚更だ。二人に早く会いたい。母に抱きしめてほしいし、弟を抱きしめてやりたい。俺たちの家に戻りたい。母の作ったピーチパイを、また、みんなで。


「……やめろ……」


 思わず、口をついていた。指で口元をなぞってみても、確かに呟いたのは自分だとわかった。
 燃えるような夕日が、俺を責め立てるようだった。あの日々はもう戻らない。夢に逃げていては、俺はもう二度と前に進めない。
 例え時間がかかったとしても。世界の仕組みを、ほんの少しでも知ってしまった俺が、俺には、やれることがあるはずだ。

 ごめん。アルフレド、母さん。
 ごめん――父さん。ごめんなさい。

 俺の大切なものが生きる世界のために、俺には……アレイス・ハル・スヴェントには、やらなきゃならないことがある。
 ル・ロンドで手に入れたものは、何も、ジュードに関する事だけではないのだから。



 ×



「あっ、レイ!」

「アレイス! やっとかえったか!」


 俺は、その扉を叩くことすら難儀したのに、子ども2人はそんな葛藤もお構い無しに飛びついてきた。正しくはジュード1人だが、イバルもしきりにこちらを見てきたので、その頭をかき回してやった。何だかんだいって、イバルもよくジュードに構ってくれているから、ジュードも1人でいる時間は少なかっただろう。
 村には子どもも何人かいるが、ジュードが一番年頃が近かっただろう。難しいとは分かっているが、いつかジュードが自分で外に飛び出せるようになったとき、この縁がイバルとジュードを引き合わせてくれたらいいと思わずにはいられない。


「……ありがとな、イバル」

「お、おう? よくわからないが、もっとほめていいぞ!」

「そういうところが、お前の良いところだよな」


 まあ、行き過ぎると欠点にもなるけど。
 後半は飲み込んで、イバルを胸元に抱き上げてやる。両親を失ってから、どれくらいの恐怖と寂しさを、この小さな体で抱えてきただろう。
 初めはばたばたと暴れていたイバルが、やがて大人しくなり、ぷくぷく笑い出した。あったかくて柔らかいほっぺたが、俺の頬にくっついて、その温もりに涙が滲みかける。
 本当におかしい。俺はこんなに涙脆くなかったはずだ。きっと、懐かしい思い出に、引きずられてしまっているだけなんだ。

 
「今日のアレイスはアマエンボーだな! フフっ……とくべつに、イバルさまにくっついていいぞ!」


 やたら上機嫌に許可が下りたので、素直に甘えることにした。俺は見てやることができないけど、きっとお前は、たくましく生きてくれるだろう。
 さようならだ、イバル。



 ×



 俺の異変に気が付いたのか、聡い子どもは、家に着くまで一言も喋らなかった。代わりに俺のズボンを握りしめて離さないので、二人ですっ転んでもかなわないと、ジュードを胸元に抱き上げて歩く。
 山とくれば基本は肌寒いものだ。ジュードとの間に温もりがたまって心地がいい。この道を帰るのも、残すところ数回だろう。もう木の葉を片付けることも、ワイバーンに餌をやることも、なくなる。
 ワイバーンの世話は、あの、俺へやたらとつきまとってきた悪ガキに頼みに行こう。ジュードの面倒を見てくれていた家に土産の一つでも用意してくるべきだったか。きっと、あの夫婦は要らないと笑うだろうが。

 足取りは重かったが、考え事をしていたせいか、家には普段より早く着いた気がする。
 数日家を空けていたので、まずは普段通り埃を取るべきだが、足はそのままベッドへと向かった。ベッドカバーを取り払い、ほどほどに柔らかなベッドへ、ジュードとともに寝転がる。ジュードを胸に抱き寄せ、その背中を撫でれば、ジュードがどこか不安そうに首を傾げた。


「おとうさん?」

「だから、違うって言ってきただろ、ジュード。俺はお前の父親じゃない」

「う……」


 普段は簡単に流すところを、今日からははっきり否を突きつけなければいけない。ジュードの悲しそうな顔に胸が痛むが、それも、今まで先延ばしにしていたツケだ。
 いくつか深呼吸を繰り返して、体を起こす。ジュードと向かい合えば、そこには鳶色ではなく、琥珀色の瞳がきらめいている。


「いいか、ジュード。お前は俺と、明日、本当の両親……お父さんとお母さんのところに、行くんだ」

「……おかあさん……?」

「お前のことを心から大切にしてくれる、お前の、かけがえのない人たちだ。友達になってくれるっていう、元気のいい女の子もいる。……お前がいるべき場所に、俺が必ず、連れていってやるから」


 神のいたずらとも言える、普通とは程遠い出会いだった。ジュードにとっては不幸だっただろうが、俺にとっては、確かに希望だった。
 だから俺は、お前から貰ったたくさんのものの返礼をしないといけない。 お前のためにも、俺のためにも、だ。


「……レイは?」

「え……」

「…………」


 か細い囁きが聞こえて、ジュードの顔を覗き込んでみるが、彼は口を引きむすんで俯いてしまった。
 イバルに引っ張り出されるようになってからは少し改善したが、それでも、我慢強すぎて言いたいことをなかなか言えない性格の子だ。特にこういう時は、周りが察してやらないといけない。
 考えられる問いはいくつかあっても、結局は、ジュードにしか分からない。子どもなら、伝えたい事が纏まっていない方がほとんどだろう。だからこういう時は、俺が一番伝えたいことを答えてやる。


「俺も、お前のことが心から大切だよ、ジュード」


 この言葉だけは、きっと、いつまでも本当だ。



 出立の準備には、想定していたほど時間がかからなかった。元々私物が少なく、旅を始める頃に、村での仕事もあらかた他に頼んでしまったから、引き継ぐものも無い。一番時間を割いたのは、その頼み込んだ先と、世話になった家へ礼を言いに回ることだ。
 ニ・アケリアに戻って2日後。俺は、相変わらず長い階段を登って、霊域へ足を踏み入れた。精霊の主マクスウェルの社であり、俺とジュードの、始まりの場所だ。
 美しい精霊の主は、祭壇に座し、ただ一人で瞑想に入っていた。人とは思えぬほどの美貌は、こうして見ると、出来すぎた人形にすら見える。霊力野のない俺には感じ取れないが、きっと、四大も側に控えているはずだ。


「――行くのだな、アレイス」


 艶のある唇が動き、次いで、金に縁取られた瞳が開かれる。彼女は俺の顔、俺が背負う荷物と、腕に抱いた幼子を見て、もう一度瞼を閉じた。重さを感じさせない動きで腰を上げ、祭壇から降り、ゆっくりと俺の元へと歩み寄る。
 肢体をすらりと伸ばした彼女は、まだ幼さの残る容姿ながら、その瞳に力強い光を秘めていた。彼女に合わせて膝を折り、彼女にジュードの顔を見せてやると、彼女……ミラ=マクスウェルは、初めてその顔に、人らしい温かみを宿した。


「ジュードは……寝てしまったのか」

「泣き疲れてな。ちっさいなりに、もうミラやイバルと会えないってことだけは理解したらしい」

「……そうだな。ニ・アケリアは本来、俗世に忘れられた秘境の村だ。君の案内がない限り、ジュードは二度とこの地を訪れることがないだろう」

「ああ。……そして、それは俺もだ」

「そうか」


 俺が、彼女の目を真っ直ぐに見つめてそう告げると、彼女は再び目を瞑る。ミラが何かを心に決める時のクセだ。本人は気づいているだろうか。
 彼女に信頼を寄せ、彼女のクセに気づいてくれるような、そんな人間が現れてくれたらいいと思う。ミラは必要無いと切り捨てそうだが、もしジュードがそうなったら、きっとミラも、悪い気はしなかっただろう。彼女は人間を好いているから。


「すまなかったな、ジュード。あの頃の私は分別がつけられず、他者に頼ることを前提として、君を連れ帰ってしまった。……だが、私は、君に会えて良かったと思っている。マクスウェルとしての責任だけではない。心から、人間を守りたいと思うよ」


 赤ん坊の頃よりは丈夫になったが、まだまだふっくらとした頬に手を当てて、ミラが目元を和ませる。俺もあの時は衝撃的だったし、俺の進む先を変える出会いだった。きっとそれは、ミラにも小さな変化をもたらしたに違いない。
 ミラはジュードから手を離して、その距離のままに、今度は俺を見つめ返す。
 精霊の主が、ひどく頼りない顔をしていた。


「そしてアレイス、君にも。……君は私のことを、恨んでいるだろうが」

「…………ミラ」


 不思議と、シルフの風も邪魔をしなかった。気づいていたのかと、言葉を繋ごうとした俺の唇に、ミラの細い人差し指が当てられる。
 その先に踏み込めば、流石に四大が黙っていないだろう。けれどそのギリギリのラインに、ミラ自らが立っていた。その手を引っ張ってやりたかったし、逆に押し返してやりたい衝動にも駆られたが、きっとどちらも不正解だ。
 膝を伸ばして立ち上がる。ミラを見下ろす形にはなったが、きっと、立っているのは同じラインだ。


「全くといったら、嘘になる。けど今は……お前に会えてよかったと思うよ、……ミラ」

「……そうか」


 精霊の主はもう、はしゃいで飛び跳ねることはない。屈託なく笑いもしない。昔は転んで泣いてたなんて、人に言っても信じてくれなくなるだろう。それ以上の、無条件の期待と信頼、そして責任が、彼女の細い体にのしかかるはずだ。


「どうか息災で。アレイス、ジュード」


 一つ、少女らしくない微笑みを浮かべて、ミラは俺たちに背を向けた。俺も踵を返して、社を出る。もう二度と、この入り口をくぐる事はない。
 階段を下りる前に、ふと、上空へと顔を向けた。見えないが、きっとその辺りにいるはずだ。ミラには聞こえない大きさで、けれど風に乗せるよう、何もいない空へ向かって声を張ってやる。


「俺の目的は、ミラとも、アルクノアとも違う。特にアルクノアのやり方は絶対反対だし、ミラのことは嫌いじゃない。あいつらにミラの情報を漏らすことはないから、安心してくれ」


 言い終わると同時に、ぶわりと、背中を押すような風が吹いた。最後まで意地悪なやつだと、せっかく緊張していたのに途端おかしくなって、なんだか笑えた。



(’180226)



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