「レイアは定期検診を受けてるんだよ。ここのお医者さんは、ル・ロンドの名医でね。精霊術を使わずに、投薬と小難しい機器で診てくださるんだよ。気になるなら行ってみるといい。マティス医院は、町の入り口にあるよ。ただ、街でも人気の医者だから、今日も忙しいかもしれないね……」


 詳しく話してくれた女将への挨拶もそこそこに、剣の仕上げも忘れて飛び出した。
 聞き及んでいた通り、ル・ロンドはひたすらに穏やかな町で、大通りを駆け抜ける旅人なんかまさしく注目の的だ。それでも平静なんか保てなくて、一刻も早くと目的の医院を探す。

 人気と聞いていた通り、その医院の前には、午後の診療をのんびりと待つ人がいた。入り口から中を覗くと、一人の女性が玄関口を掃除している。
 白衣に、艶やかな黒髪の女性だ。美しい黒髪も、つりがちな目も、初対面だというのになぜだか見覚えがある。

 声を、かけなくては。

 声をかけなくてはいけないのに、上手く言葉が出てこず、口が無意味に開閉を繰り返す。ようやく見つけた手がかりに、気持ちが急いているのか、それとも何かがつっかえているのか分からない。
 じゃり、とたじろいだ足音に、立ち尽くす少年へ気付いた女医が、箒を手にそっと微笑んだ。


「あら……こんにちは。患者さんですか? ごめんなさい、午前の診療は終わってしまって。急患でなければ、もう少し待ってくださるかしら?」


 背筋を伸ばし、困ったように微笑みかけられて、俺はようやく首を振る。止まっていた頭が急に回転し始めたせいで、少しだけ頭痛がする。


「あ、いえ。旅の者ですが、こちらに名医がいると伺ったので……お話をしてみたくて」

「あら、そうだったの。難しいかもしれないけれど……夫に確認してみますから、少しお待ちくださいね」

「あ、あの」


 院内に戻ろうとした女医に、つい声をかけてしまった。不思議そうに振り返る彼女へ何か言わねばと、言葉を探して、なんとか口を開く。
 風に揺れる黒髪や、不思議そうに瞬く目の形が、見れば見るほど良く似ている気がした。伝えなければという義務感が、やたら重たいくちびるを持ち上げてくれる。


「……ここの医師は、精霊術を使わないと聞いたのですが、どうやって治療してるんですか?」

「ディラック医師は、基本的には、投薬治療で自然回復力の衰えない治療法を行っているの。重篤な患者さんには、特別な機器を使うこともあるわ」

「特別な機器っていうのは?」

「夫が作ったものよ。とはいっても、滅多に使うことはないけれど……扱いが難しいもので、夫以外は扱えないの」


 黒匣の、ことだろうか。6年前、父は医師について何か話していただろうか。医師は母を診に来たことがあるだろうか。まだ判断材料が足りない。俺にはもう、思い出せることのほうが少ないのに。
 今度こそ、女史が夫へ話をしに行ってしまう。彼女の一歩一歩がひどくゆっくりと見えた。俺は理由の無い焦燥感に突き動かされて、あの、と。またその人を引き留める。今度こそ不審そうに眉を寄せられても、俺には返す言葉が無い。返してもいい言葉が無い。

 ――だって。
 だって、両親が見つかってしまったら、ジュードは。



「エリン、そろそろ午後の用意を……」


 静寂を破る男の声に、俺と女医が顔を上げる。
 診療所の奥から出てきた白衣の男性を、俺と目があって驚愕する彼を、女医はディラック、と呼んだ。


「え……?」

「君は……!?」


 気難しそうな面立ちのその人を見て、確信した。朧げな記憶が呼び覚まされ、頭が、激しく痛む。
 父の横顔、楽しそうな弟、穏やかに微笑む母、突然荒れた海、響く雷鳴、押し寄せる波――それから、父と親交があった、若き名医の姿。


「あなたが、ディラック・マティス医師……」


 8年分の月日は感じるが、十分に若い白衣の男。彼とその妻の顔立ちを見て、彼らこそがジュード・マティスの両親だと確信してしまった。
 そのとき胸に込み上げたのは、きっと、喜びではなかった。



 ×



 彼の名は、正式にはディラック・ギタ・マティスという。エレンピオスでは若干27歳の名医として知られ、黒匣を巧みに扱う外科医だった。今は彼が発明した医療ジンテクスなる器具を用い、投薬や内診など、黒匣よりも影響が少ない施術で患者の治療に当たっているそうだ。
 診察室へ通され、患者が座る椅子へ腰掛ける。エレンピオスの医療とは異なり、機材の少ない診療所だが、治癒術のあるリーゼ・マクシアでは逆に機材が多い医院だと見られるだろう。

 厳格そうな男の瞳は、滑らかな蜂蜜色をしている。ああ、ジュードにそっくりだ。髪の色と目の形は母親譲り、瞳の色は父親譲りらしい。
 白衣の男――ディラックは、俺をじっと見つめると、一つ深い息を吐いた。


「君は、アレイス・ハル・スヴェントで間違いないな」

「……そうです」

「そうか。君も生きていたのか……」


 椅子に腰掛け、背筋を伸ばし、手を膝に当てたまま、ディラックは目を閉じた。昔を回顧しているのだろうか。その様子に駆り立てられ、俺は勢いのままに腰を浮かす。


「教えてください、ディラックさん。あの後船はどうなった……? 先生が生きてるってことは、他にも生存者がいるんでしょう!?」

「落ち着きなさい。……君は、何も知らないのだな」

「知らない、って、何を……」


 ディラック医師の目には、悲しみと、戸惑いのようなものがあった。言い知れぬ不安を生むその眼差しに、どくどくと、心臓が早鐘を打ち始める。
 俺が何を知らないっていうんだ。何が、あったというのか。


「客船ジルニトラ号は、ここから西の方角に漂着した。君の家族は……父親の行方がわかっていない」

「……っアルフレドと、母さんは……?」

「数年前、何者かの襲撃に遭い、私たちの拠点は失われた。それまでは君の母親も、弟もいたが……すまないが、今の居所は知らない」

「そ……う、か。生きて……」


 襲撃とは、おそらくミラによる粛清に違いない。それまでは、少なくとも生きていた。弟の幼さと母の体の弱さが気がかりだが、それでも生きていてくれた。
 どうと、倒れこむように椅子へ腰掛ける。父がいないのなら、代わりに俺が二人を守ってやらなきゃいけなかったのに、側にいることすら叶わなかった。せめてあの時甲板にいなければ。弟と二人、船室で母と休んでいれば。
 しばらく考えなかったあの日の事が、鮮明にフラッシュバックしてくる。かぶりを振ってそれを払った。俺は、もうするべき事を決めてしまった。もしも話なんて時間の無駄だ。


「貴方は、リーゼ=マクシア人と所帯をもったんですね」

「非難も受けよう。エレンピオスにいた友人や親類を顧みず、私は異界の地でエリンと家庭を築いた。エレンピオス人である君には、理解しがたいだろう」


 静かな眼差しの奥に、確固たる意思が見える。妻を守る気概と、俺に対する同情心か。
 きっと、ニ・アケリアに辿り着いたばかりの俺なら、ディラックに激昂し掴みかかっていたかもしれない。けれどもう、俺はリーゼ・マクシアの人々と交流し、エレンピオスが抱える問題を知ってしまった。彼を非難するどころか、今の感情の在り方は、ディラックさんに近いと認めなくてはいけない。
 ディラック医師が思いつめた表情をしているので、俺はつい、困ったと苦笑した。


「いや、そうは思いません。俺も、リーゼ・マクシア人に助けられて、8年間生きてこれたから。エレンピオスの人と、何も変わらないと、そう思う」

「……そうか。私から伝えられるのはこれだけだ。君の目的が同郷の者を探すだけなら、すまないが、もう立ち去ってくれ」


 ディラック医師が立ち上がり、窓際でこちらに背を向けた。暖かな光が差し込む気候とは対照的に、部屋の空気は静謐で重苦しい。
 リーゼ・マクシアで結婚したということは、少なくとも、もう彼にエレンピオスへ帰る気はない。後ろめたさに近いものを抱いているにしては、少々強固すぎる姿勢だ。あの日の悪夢を思い出したくないのかもしれないが、違和感が拭えない。
 もうそろそろ引き上げなければ、午後の診療に差し障ってしまうだろう。けれどこの様子では、明日以降来てもゆっくりと話してはもらえなさそうだ。慌てて俺も立ち上がり、声を潜めながら、白衣の男に一歩近づく。


「確かにエレンピオス人を探してはいたけど、俺の目的はそれだけじゃない。ディラック・マティス医師……ジュードという名前に聞き覚えは?」

「ジュードだと……? ジュードを知っているのか?」


 はっと目を見開いて、ディラックは俺に振り返った。俺が確信を得たことで、するりと言葉が口から滑り出てくる。本題はこちらなのだから。


「俺は、マクスウェルを強く信仰する村に身を寄せていた。ジルニトラ号を襲ったある人物は、そこから一人、赤ん坊を連れてきた。そいつの衣服に、ジュードって刺繍が入ってた」

「……そうか……ジュードが、生きて……」

「そいつは今、俺が預かって面倒を見てる。怪我や病気もなく、無事だ。見た目は……黒髪に、貴方と同じ目の色をしてる。前掛けに名前の刺繍があって……ジュードは、あんたの息子で間違いないのか?」

「ああ、ああ……そうだ。あの時、エリンが預けた家からジュードはいなくなっていた……あれからエリンは自分を責めて、塞ぎ込んできた……」


 ディラック医師はそう零すと、堪えるように目を閉じ、再び椅子に腰掛けた。しかし今度は背を丸め、何かに祈るように手を組み、項垂れる。


「そうか……君のもとに……」


 最愛の息子の生死が分からず、むしろ絶望的であった3年間は、マティス夫婦にとって筆舌に尽くしがたいものだったはずだ。諦めかけてすらいた中、急に吉報が飛び込んで、平静に受け止めろという方が無理だ。
 それなのに、ディラックは黙り込む俺に気づくと、目に力を入れて顔を上げた。元の意思が強い面立ちに戻り、俺は息を呑んだ。

 ああ、これが父親か。

 別に、世界を動かすような、超然的な意思ではないけれど。本当の父親というものを見て、俺は、自分が密かに願っていた事の愚かさを思い知って、途方もない恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
 ジュードと離れるのが惜しいなんて、出過ぎた思いを抱くなど、あってはいけないことだ。


「――ジュードを、貴方たちの元に返したい。ずっと遠くにいるから、少し、時間はかかるけど」

「そんなもの、この数年に比べたら、無いようなものだ」


 ディラックはしっかりと頷いてみせる。一方的な気まずさで目をそらすと、診察室の扉が見えた。ジュードを授かり、産み育てたあの女性は、この報せを受けてどんな顔をするだろう。


「エリン……家内には、私から伝えておこう。彼女はアルクノアはおろか、エレンピオスの存在も知らない。明るく振るってはいるが、今でもずっと、自分のせいだと夢に魘されている……」

「……わかりました」

「どうか、礼を言わせてほしい。私たちの息子を守ってくれて、本当に……」

「いや。助けられたのは、きっと俺の方なんだ。ジュードがいたから、俺は、家族の無事を信じ続けようと思えた」


 最後は、独白に近い。だが真実だ。ジュードがきっかけで、ミラから情報を聞き出し、エレンピオス人の手がかりも得られた。俺が生きてこれたのは、きっとジュードのおかげだ。
 苦くも力なく笑った俺に、ディラックさんは少しだけ黙って、再び俺に背を向けた。


「よければ、診療時間が終わった後、また来てくれないか。……君に、話さねばいけないこともある」

「……俺に? わかりました。宿で食事をもらってから、その後に来ます」

「ああ……」


 ディラック医師との話はそこで終わった。俺が診察室を出るまで、こちらに彼は背を向けたままだった。
 診療所を出ると、エリン女医が患者と談笑をしているところだった。俺が会釈をすると、相手も同じように返してくれる。なんとなく、マティス夫妻と顔を合わせていられなくて、挨拶もそこそこにその場を立ち去る。

 ル・ロンドの空は、相変わらず突き抜けるような青をしている。大通りの端っこで、ぼんやりと空を見上げながら、アレイスは大きく息を吸い込む。ともかく、詳しい話はまた夜に持ち越しだ。肩の力が抜けていく。
 これで、ジュードは家族の元へ帰ることができる。偽りでない、本物の両親の庇護を得て、健やかに育つことだろう。それを心から祝えない俺は、きっと薄情者なのだ。





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