「本当に行くんだね」

 俺が夫人に向かって深く頷くと、ジュードはさらに下を向いた。ぎゅうと唇を噤んで俯くのは、言いたいことを我慢するときの、こいつの癖だ。
 しゃがみこんで目線の高さを合わせてやれば、素直にこちらを見つめ返してくる。案の定、不安に揺れる瞳がそこにあった。

「……大丈夫だ。たまには、帰ってくる」
「……うん……」
「言いたいことは言え、ジュード。……俺、怒ったことあるか?」
「……おとうさん」

 ジュードも少しずつ成長し、いろんなところが変わり始めた。
 我慢ができるようになり、言葉をたくさん覚えて、俺の呼び方がお父さんに変わった。一人遊びがうまくなり、実や草をすり潰して医者の真似事にハマり始めた。もう、恐らくは3つになる。
 ……できれば、名前の方がいいんだが。今話しても混乱させるだけかもしれないと、訂正しないままでいる自分も悪いか。

「おとうさん、どこにいくの?」
「ずっと遠く、いろんなとこだ」
「……いつ帰ってくるの?」
「わからない。……けど、必ず戻ってくるから」
「…………うん……」

 答えるたびに、ジュードは暗い顔になっていく。純粋な好意を向けられるたびに、胸の中で凝り固まっていた何かが、溶けていくような。そんな心地がする。
 俺はきっと、ジュードをアルフレドに重ねている。
 ――あと二年もすれば、あの頃のアルフレドと同じ年齢になるだろう。本当の親を知らないままで、俺なんかの元で育って、いいのか?

 前髪を上げるように手を当てると、不安げに揺れる蜂蜜色が見上げてくる。
 初めから分かっている。この年頃には、子どもという生き物には……正しく導いてくれる親が、必要だ。

「……ジュード。俺が戻ってくるまで、ここで待ってられるか?」
「……うん……」
「いい子だ」

 くしゃりと頭を撫でてやれば、ほんの少しだけ、幼子の口元が綻んだ。両足だけで立てるようになり、会話もできるようになった。けれどやっぱり、まだ子どもだ。
 両親を見つけて、ジュードをその元に返そう。それが本来の居場所であり、ジュードや俺の為でもある。ジュードの両親は、俺にとっての手がかりでもある。

「ちゃんと帰ってくるんだよ。あんたは、ジュードの大切な家族なんだからね」

 長年世話になっている夫人も、この七年で少しずつ老いていた。頷いて、ジュードをその人に任せてから、踵を返す。背負った荷物が、いつもより少し重たく感じる。
 子供の成長はもっと目覚ましい。弟もきっと、俺が一目じゃ分からないくらいに育っているはずだ。もし、俺とそっくりの顔立ちになっているなら……少し、気恥ずかしいだろうか。

 ニ・アケリアの入り口を跨いだあとは、足取りも軽かった。旅立つに辺り、渡り歩く順番は決めてあるが、どこへ向かうにしたってまずはイラート海停だ。
 さっさと海漠を抜けてしまおうと、逸る気持ちを抑えながら、輝く砂の道を踏んだ。


 ◆


「アレイス」
「……ミラ?」

 美しい滝の前で、短い休息を取っていると、空から少女が下りてきた。波打つ金色の髪と、鮮やかな紅色の瞳で、一目でミラ=マクスウェルであると分かる。
 相変わらず、青い空に映える金色だ。その傍らにシルフを従えていたが、彼は俺をひと睨みすると、すぐに姿を消してしまった。出会った頃から邪険に扱われているし、今後親交が深まることもないだろう。まあ……四大精霊相手に、俺が仲良くなる必要もないか。

「また旅立つのだな」
「ああ。……今回は、少し長くなる」
「そうか」

 飛行が可能なミラにとって、きっと、長距離の移動というだけでは旅にならない。加えて彼女が世界を回るのにも、確固たる理由がある。旅立つのかという問いは、やりたいことがあるのかという質問と同義だ。本当に、娯楽とは縁のない生活をしている。

 ミラを見つけるたびに、自分が七つの頃は、どう過ごしていただろうと考える。
 両親に褒められるまま勉強し、弟の面倒を見て、日々を子どもらしく過ごしていた。おそらくまだ、自分らしさを追い求めるには早い時期だった。エレンピオスの濁った空を見上げ、雨の日をつまらなく思いながら、自分なりに日々を消化していた……と思う。
 けれどきっと、比べること自体合っていないんだ。精霊と人間じゃ価値観が違うのも当然だ。ミラがマクスウェルだというなら、当たり前のことだ。

「アレイス。一つ聞きたいことがあるのだが……構わないか?」
「ん?」

 ふと、水辺に立つミラから声を掛けられて顔を上げた。初め背を向けていたミラは、俺が応じるとこちらを振り返り、息を吸った。



「君は七年前、キジル海漠に流れ着いていたのだったな。どうしてそのような事態になったのか、覚えているか?」

 七年前。海漠に漂着した……することになった原因。

 心臓を掴まれた気分だった。……来てすぐは記憶がないと偽り、誰とも口をきかなかった。そう過ごしているうちに誰も気に留めなくなった。それがどうして今更、よりによってミラの口から出たのか。

「……急に、なんで」
「気を害してしまったなら、すまない。ここにきてふと思い出したのだ。答えたくなければ、言わなくていい」
「…………」

 ミラは今も、ただただ真っ直ぐに俺と対峙した。その真意はつかめなくとも、真摯な眼差しだけは変わらない。おそらくミラは、俺が漂着した年や時期、その日に遭ったことについて知り、気付いている。
 ……話すべきか、隠すべきか。姿は見えずとも、ミラの後ろには四大が控えているだろう。エレンピオス人だと明かしかねない言動は、慎むべきだと理解している。
 けれど同時に、マクスウェルの降臨が及ぼした影響も知らないのでは、平等でないと、無責任だとも思って。気付けば、口を開いていた。


「七年前……あの日、俺は家族と船に乗ってた。そしたら、天候が大きく崩れて……俺は海に投げ出されて、あそこに流れ着いた」

 眼前に広がる海は、かつての天災など忘れたように穏やかな波を寄せている。
 7年前。突然四大精霊が消失し、大規模な天災が起きた。一般的に“大消失”と呼ばれるそれは、当時行われていた戦争の地で、甚大な被害をもたらしたという。他にも、魚を取っていた漁師や、水辺にある集落へ影響があったかもしれない。

 非難したいわけじゃない。詫びてほしいわけでもない。種や世界の存続に関わる理由でもあったのかもしれない。それでもだ。
 人や精霊を救う使命を持って降臨したはずのマクスウェルが、そういった可能性を考えすらしなかったのなら。知りもしなかったというなら。
 大切なものを失った者としては、それはひどく押しつけがましく……腹立たしい。

「……そうか」

 ミラはそれだけ返し、そっと目を閉じた。それはおそらく、ほんの少し、思い悩む様子だ。……もしかすると、巫子の死に触れてから、何か思うことでもあったのだろうか。
 何にせよ、この様子を見て、確信した事がある。思ったよりは落ち着いている自分に、むしろ驚いたくらいだ。

 ニ・アケリアの人々は、突然現れた女児をマクスウェルであると信じた。その根拠は、周りに就き従っていた四大の言葉だ。
 ミラ自身に記憶はなく、生命活動の全てを四大に頼っている。じゃあ、わざわざ弱体化する肉体を得る利点はどこにある?
 ……もしかすると、四大がミラの正体を偽っているんじゃないか?
 確かに、最上位の精霊が嘘をつく理由も思いつかない。けれど、だからといって、全てが正しいとも限らない。最上位の精霊については、むしろ人間は知らないことの方が多いんだから。
 人間の尺度で測れないのなら、結局は、本人が本人の確証を元に宣言するしかないが……おそらくミラにはそれができない。

 異世界人である俺だけが、あのニ・アケリアで不審に思うこと。猜疑心を失わず、真相を知らぬまま年を重ね、彼女を見てきたから疑うこと。マクスウェルを恨むだけなら、詮索するべきではなかった点。
 俺にとって、この女児……ミラ=マクスウェルが本物であるという証拠は、存在しない。
 現に彼女は、自身の行為による犠牲に、少しでも心動かされている。それは幼い人間ゆえの、心の機微ではないのか。

「ミラ。ちょっと、こっち来い」
「……なんだ?」

 ミラに手招きをすると、少女は首を傾けながらもこちらに近づいてきた。その時一際強い風が吹いて俺をよろめかせたけれど、きっと、彼女に付き従う者からの威嚇だろう。

 横槍を無視して、ミラの頭をぐしゃりと荒く撫で回した。俺の腹ほどにある頭が不可解とばかりに眉を寄せるが、知ったこっちゃねえ。
 腰をかがめて、目線を合わせる。紅色はいつだって真っ直ぐだ。ならばこれからも、真っ直ぐに、全てを受け止めてもらわなくちゃならないだろう。

「お前が為すべきことを為すために、これからも、多くの犠牲を払うことになる。けどお前は、例え結果を悲しんだとしても、その行いを悔いちゃならない。自分の行いを正しいと信じて、どうしても、その在り方を貫くってんならな」

 この時俺は、どんな目をしていただろう。
 ミラは少しだけ目を大きくして、けれど俺から視線を外すことはなかった。

 かつて黒匣を持つ人々を切り捨て、その他大勢を選んだように。マクスウェルは、マクスウェルの尺度をもって何かを守るのだ。全てを理解し受け入れるためには、世界規模の価値観が必要になる。けど、そんな人間はごく少数だ。
 切り捨てられた人間はきっと恨むだろう。自分たちを見捨てたマクスウェルと、何も知らずに守られる、リーゼ・マクシアの人々を。例え世界のためであっても、その行いを否定する。

「俺は、お前が諦めることを、許さない」

 万が一にも、彼女の行いに、非があったとして。そこで心を折ることも許さない。常に前を向き、全てを認めて、進め。

「……ああ。アレイス、私は迷わない。人と精霊を救うため、必ずや使命を全うすることを、改めてここに誓おう」

 その言葉に、少女は矛盾を孕むことに気づけない。けれど俺が口を出したところで、四大の目につき、きっと殺されるだけだ。

「例え君と、刃を交えたとしても」
「……ああ、それでいい」

 俺の他に生き残りがいるのなら、必ずミラに牙を剥くだろう。少女は今後、こういった恨みの全てを正面から受け止めなければならない。
 これはきっと、人間の体を持つミラが、マクスウェルとして生き、進むために必要なこと。己が正義の下に突き進む者の、定めだ。

 俺は荷物を背負いなおし、再び出発しようとしたところで、ふとミラを振り返った。

「ミラ。お前や、イバル、ジュードにも、もしかしたら出来るかもしれない。そういう……命を賭しても、守りたい人ってやつが」
「それはありえないよ、アレイス。私にとって、その感情は不要なものだ」

 あっそ、とだけ返して、アレイスは踵を返した。ミラは何も言わず、こちらから見えなくなるまで、凪ぐ水平線を見つめていた。



’150122



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