「じゅーうーどー」
「あー」
「…………」
「ジュード!」
「あい!」
「! おお! アレイス、ジュードが返事をしたぞ、自分の名前だと理解しているのだな!」
「…………ああ……」

 ミラが入手していた育児書によれば、ジュード・マティスはどうやら1才と少し、といった具合のようだ。アレイスはといえば、件の幼児がとうとう掴まり立ちを始めたものだから、四六時中気が気でない。
 大きな家具が倒れないよう、壁に打ち付けて固定し、危険なものも高いところへ保管する。一通り作業を終えた時には、壁に寄りかかって二足歩行をしていたジュードも、疲れたのかうつらうつらと舟を漕いでいた。

「……ミラ、ジュードが倒れないように気をつけておいてくれ」
「うむ、任せてくれ」

 瞑想時の浮世離れはどこに身を隠したのか、今では精霊の主もすっかり姉気取りの様子で、ますます毒気を抜かれてしまう。重苦しい不快感が、胸の底で渦を巻く。
 何をへらへらと、子育てなどに興じているのか。この女児はもしかしたら――この子の親を、その手にかけているかもしれないのに。

「……アレイス?」
「、なに」
「いや、声をかけても返事がなかったから……どうかしたのか?」

 俺の身を案じでもするかのように、眉を寄せて伺ってくる少女に、とにかく今は“普通”でいるしかない。
 変に迷ってボロを出して、それを四大が見逃すはずもない。ミラだってもう少女とは思えないほどの知識と聡明さを身に着け始めている。
 ヘマをしても得などない。この村に、世界に、俺の味方なんて存在しない。

 ……ああ、なんだ俺、もう死んだようなものじゃないか……。



「……俺、ワイバーンの世話をしに行くから、ミラは社に帰るんだ」
「わかった。では、今度は赤子の会話訓練に関する本を読んでみることにしよう」

 にこりと笑って頷く彼女は、以前の様な溌剌とした印象が薄れ、子どもらしくない大人しさを見せ始める。

 今年で七つになる彼女は、随分と聞き訳が良くなった。更に知識欲を増し、無差別に本を読み漁っては、するすると飲みこんで、思慮深く、自己の規律を培っていく。……かと思えば妙に偏った知識を披露するものだから、輪郭ははっきりしているのに、彼女はどこか掴みどころがない。
 精霊たちは、人と時間の流れが違う、理さえも重ならない。人間の歴史など通常は取るに足らない、覚えることもない事だったのだろうか。

 ワイバーンの棲家は、社へ向かう道の途中で枝分かれをしたその先になる。よって、ジュードを寝かしつけたのち、ミラと共に小屋を出るのも奇妙なことではなかった。マクスウェルは現人神だ。一人で精霊術を操れるようになったとはいえ、単身出歩いて怪我なんかされては堪らない。ミラがこのボロ小屋に入り浸っていることを、四大は当然把握している。
 この事実がもしニ・アケリアに知れ渡ってみろ、俺は一体どうなるだろう。昔あのいけ好かない少年は、小さな火傷では済まないと言った。数年経った今では、俺を丸焦げにすることだって容易いのかもしれなかった。

 ――もう、本当は生き残りなんていないかもしれない。
 父さんも、母さんも、アルフレドもみんな……みんな。

 日に日に重たくなる足を、それでも押し進めているのは、きっと手を焼かされているはずのジュードのおかげかもしれなかった。黒匣のそばに在ったのなら、きっとこの子はエレンピオス人の血が流れている。幼子は、エレンピオスがあることを示す、俺と世界の証明にも見える。
 ここは恐ろしい。見えない悪意で満ちている。リーゼ・マクシアは見えない凶器の塊だ。正義の反対は正義だなんて、ここではありえないことだ。何が救いなものか。

 なあ。

 本当に、マクスウェルは世界を愛していたのか?
 マクスウェルが守りたかったものって、一体、なんだったんだよ。



'131210



back

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -