「また、貴女なのか」


 苦しげに噛み締められた唇から、じわりじわりと血が滲んだ。
 その顔は、ずっと恋い焦がれた料理人であり、長く親しんできた従兄弟であり、よくパートナーを組んだ同期でもあったが、目を染め上げる感情はどこまでも暗い。

 やっぱり、そんな険しい顔、あなたには似合わないと笑った。いつもみたいに笑ってほしい。偽物の世界で唯一輝いていたもの。
 言葉の代わりに口からは血液が零れ、みっともなく胸元にちらしていく。
 これはきっと教訓だ。私はまた探さなければならない。臨むところだ。
 意識と世界を手放しながら、私は今回も苦笑する。





 この世界の私は、彼にとって「年下の同期」にあたる。
 高等教育機関を卒業後、私はクランスピア社に入社した。彼……ルドガー・ウィル・クルスニクは、一年のブランクを経て、私の同期として入社を果たした。
 ここでの私たちに、家族的な繋がりは薄い。ただ、同じクルスニクの一族というだけだ。

 二つ年上の同期は、握手が帰ってくるだろうと期待していた腕を、ぽかんと上げたままだった。鳩が豆鉄砲をくらったような顔とは、こんな感じだろうか。


「あなたこと、興味ありません」

「え」

「仕事に集中したいんです。仕事以外で、話しかけないでください」


 聞こえなかったかと。念を押すように、ゆっくりと、噛み砕く必要のない丸のままの言葉を放った。それが大体3ヶ月前。
 初対面、しかも同期とはいえ年下の小娘からそのような口を聞かれれば、いくら心優しい青年相手といえど、その後の関係など想像に難くない。

 青年の名は、ルドガー・ウィル・クルスニク。クランスピア社の人間ならば、誰でも察するファミリーネームの持ち主だ。
 彼の兄はGHS開発局のトップであり、現に今の社会を支えるGHS技術の重要機能を数々開発している。人を執りまとめる能力にも長け、社内の誰からも高い評価を得る人物。故に、その弟である彼は、しばらく七光りだと揶揄されるだろう。

 けれど、それでいいんだろうなと、アリアは大きく伸びをする。
 兄と釣り合う男になるため、大企業に拘って就職先を探していた。人より長い時間をかけて、やっと掴んだステップだ。出来のいい兄に比べられるということは、すなわち同じ世界にいるということ。きっと彼にとって、比較さえも誇りに変わる。

 彼は今幸せなのだ。どうせ壊される世界。私に関わった場合、多くの彼は不幸になった。誰も彼もが、思い思いに生きるべきだ。





「アリアさ、やっぱりなんか、あの人に冷たくない? この前も……」

「ええ? 気のせいだよレイア。あの人はただの同期だし、あんまり話さないから親しくもないだけだってば」

「そうかなぁー?」


 そうだよ。

 知り合って間もないはずの友人に、アリアはどきりとしながらも、ぎこちない微笑みを向けた。
 年下の彼女は、それでも納得がいかないという顔をする。彼女のスプーンには、何やら青みがかったスープとライスが混ざり合っている。
 彼女と食事に来たのは二度目だけれど、レイアの前には、どうも一般受けしそうにないものばかりが並ぶようだ。中でもこのサイダー飯はトップランカーに名を連ねていて、度々私の食欲さえも飲み込んでしまった。


「わたしね、まだアリアと出会ってからふた月しか経ってないけど……アリアらしくないなって思うんだ」

「そう? ……でもさ。レイアだって、絶対に馬が合わなさそうだなーって人、いたことない?」

「……それは、」


 そうかもしれないけど。
 レイアがきゅっと眉を寄せた。食事を運ぶ手も止まってしまって、一瞬の沈黙が下りる。

 私たちは、お互いのことをほとんど知らない。ちょっと取材を受けたのが、年の近い女の子同士だったから、少しばかり話が弾んだってだけ。「私たち」は、そういう出会いをしたってだけ。
 この世界では、レイアのことを「私」は知らない。「私」のことだって、レイアはほとんど知らない。それだけ。

 誰だってそうだ。夢で会っているからと、知っている気になっている、私の方がずるいのだ。
 私みたいなのは、あまり人と関わらないほうがいい。ずっと前から知ってるもの。


「レイアって、結構ゴーインだね」

「あ、ご、ごめん。わたし、嫌なこと言ってた……よね」

「ううん、逆。レイアが心配してくれてるのは分かってる。すごく嬉しいよ。でも、本当になんでもないから」

「そっか……」


 深い緑の眼差しは、どこか不安げに揺れている。彼女も何か、後悔したまま生きているのだろうか。いつも溌剌とした印象からは、なかなか想像つかないかもしれないけれど。

 いや。「私」は、想像しようとしたことも、なかった気がする。
 いつからか、どうでもいいと思うようになっていた。友人のことも、家族のことも、ただ一人……好きな人のことも。
 だっていつか壊される時を待って、好きだとか大切だとか、そんなの思って何になるの?

 友達に引っ張られてやっと入れた、美味しいと評判な駅前の食堂。厨房のほうに目を向けても、あの白は見当たらない。シェフオススメ、トマトクリームソースパスタの文字も……見当たらない。
 思わず零れたため息が、安堵なのか落胆なのか、自分でも分からなかった。


「……無事に帰ってきてくれるなら、私はそれでいいの」

「アリア、それって……」

「何も言ってないよ。ほら、早く食べてデザートたのも! ここのケーキ、すっごく美味しいって有名なんだから」


 日が暮れてからの、穏やかなディナータイムだった。レイアは何か言いたげに口を開いて、何も言わずにサイダー飯を口に含んだ。


「あのね、アリア。ひとつだけ聞かせてほしいの。あの人のこと、本当に嫌いなの?」


 向かい合う女の子は、ひたすらに真っ直ぐで、自分より人を優先してしまう、一生懸命でお節介で優しい私の友達。
 いつだってそう。レイアは少し強引だけれど……いつだって、友達でいようとしてくれた。真っ直ぐに私を見つめてくれた。過去に何かあったのか、そう在れるように努力しているように見えた。


「……苦手よ。けど、幸せになってほしいと、そう思っているわ」


 ――時歪の因子は、正史世界と最も異なるものの形をしている。
 じゃあ私は、何度も因子化している私は、一体何がおかしいんだろう。



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