「……あ! ルドガー、こっちだよ!」
GHSの画面を割れんばかりに睨めつけていた少年は、遠くから響く慌ただしい足音にパッと顔を上げた。
単色で舗装された道をソールで打ち鳴らしながら、慣れた様子でネクタイを緩める様は、エレンピオスらしい立派なビジネスマンだ。 彼は元からフォーマルな服装がとても似合っていたけれど、なるほど、仲間の見立てに間違いはなかったらしい。 あの人はやたらとブランドに拘る人だった。
「悪い、ジュード。仕事が長引いて遅くなった」
「僕は全然構わないよ。むしろ、忙しいところ遠出させちゃってごめん、ルドガー」
息が整うのもそこそこに、ルドガーは神妙な面持ちでジュードを見やる。 つられてジュードも眉を寄せて、一つ頷いた。
「わざわざジュードの方から連絡がくるくらいだし……そんなに、悪いのか」
「うん……たぶん、今までで一番深刻な状態だよ。話は通してあるから、ルドガーは早く行ってあげて」
「わかった。ありがとう、ジュード」
律儀に挨拶まで残して、青年は再びスーツを乱して走り出す。 礼を言うべきは僕の方だと、年若い研究者はほっと一息をついた。 ああ、やっと研究が再開できそうだ。 さながら親友は天の助けの具現であった。
「あ"〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
言葉の上では両手を上げていそうなものだが、その実彼女はもう数刻ほど机に突っ伏したままであった。 血走った目を半開きにさせて、ボサボサの髪を机に流しながら、それでも脳内から溢れ出るアイディアを書き留める手が止まらない。
研究室にそっと入室したルドガーは、普段通り無言で近くの人間と目を合わせる。 ギガントモンスターに畏怖する眼差しがそこにあった。
マティス博士の優秀な助手であると、研究に関しては信頼の厚いアリア・セルシオは、なかなかに面倒な性格をしていた。 平常時こそ人当たりがよく、笑顔の可愛らしい女性なのだけれど、どうもうまくストレスを発散できずに溜め込んでしまう。 初めは落ち着きがなくなったり、やたらとGHSを見つめているだけ、なのだが。
見ての通り、今回は相当重症であった。ジュードの救難信号にも頷ける。 ある意味この原因らしいことを最近認めてきたルドガーは、何かと複雑な気持ちだ。
定期的にルドガー欠乏症(ジュード・マティス命名)を患う彼女は、この所の休みない研究と、調子が良いあまりに止め度なく湧き上がる新回路の記述をまとめ続けること数日。 ろくに睡眠や食事も摂っておらず、ナチュラルハイをも超えた何かに陥っている。
ガス抜き担当としては一刻も早く声をかけるべきだったが、ギガントモンスターをそこそこ相手にしてきたルドガーでも、怯むほどの威圧感がある。 黒い、どす黒い。 意を決してアリアの近くへ忍び寄る青年を、研究員達が固唾を飲んで見守る様こそ異様であると、突っ込む者はいない。
「アリア、お疲れ」
「あああとうとう幻聴が…………うううルドガーさんんん……脳内が試算式に占拠されてあなたの特製トマトクリームソースパスタの味が思い出せなくなりそうです……グスッ」
「幻聴じゃないって。俺だよ、アリア」
「…………………。ッッッ!!!!?!?」
その時ルドガーは、20年の現人生で初めて声にならない悲鳴を聞いたという。
メキメキィッッとペンをへし折ったアリアは、その右手からダラダラと血を流しながら、充血した両目でギラギラとルドガーを見上げる。 本人的にはポカンと普段のアホ面を晒しているだけの気がしても、実際はめちゃくちゃ怖かった。悲鳴を上げそうになったのはルドガーの方だった。 そうしている間にも、流石の医学校出身者は、冷静に治癒功をかけはじめている。これが百戦錬磨の技か。
「え"!? ルルルドガーざ、!?」
「あ、ああ。久しぶり、アリア」
水分も足りていないのか、普段の明るい声色はひどく嗄れており、痛ましさと恐ろしさを助長させてしまっている。 懸命に及び腰を隠しながら、同時に二つ年下の彼女を気遣って、ルドガーはそのやつれた顔を覗き込んだ。
「疲れてるなら、少し休んだ方がいいんじゃないか? すごく顔色悪いぞ」
「へアッ!? あ、あ、いや! 自分まだまだです、ルドガーさんのおかげであと百年は頑張れます!」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、俺(とみんな)はアリアの体が心配なんだよ。そうだなあ……とりあえず、飯にしないか? 調理場借りて、俺が作るからさ」
「お、おおお、あああああ…………!!」
涼しい顔で、ネジの飛んだアリアの猛威を受け流すルドガーは、周囲で一斉に吐き出された安堵のため息を聞き取っていた。 今逃げた幸せを掻き集めたら、宝くじくらい余裕で当たるかもしれない。
研究に関しては信頼の厚いアリア・セルシオは、たまに手間がかかり面倒なものの、幸い非常にちょろかった。 ちょろ甘だった。
相当ルドガーに惚れ込んでいるらしい当人は、非常に優秀な才覚の持ち主だ。 医療用黒匣から源霊匣研究へと移動してからというもの、彼女の立案をきっかけに進行したものが幾つもある。
だが、情緒不安定になった彼女を呼び戻す術はルドガーしか持たない。 かつ自力での回復が困難と判断した医学校出身のジュードは、先日、二重の意味で頼りにしている親友にSOSを飛ばした。 ルドガーには申し訳なかったが、早期発見早期対処はお互いのためであった。
「ほら、立てるか?」
「も、もちろんです、うお」
ルドガーに支えられているだけで失神しかねない境地に達しているアリアは、半ば引きずられるように連行されていった。 冗談の様だが、覚束ない足取りでもなおルドガーを見つめる彼女は本気だった。何がとは言わず。
一先ずは安心だと胸を撫で下ろすジュードである。これで僕のできることは完了した。 ともかく、一刻も早い仕事仲間の健康回復を祈りつつ、ようやく平穏を取り戻した研究室で、散らばったメモ書きと折れたペンを整頓から始めることにする。 清潔で笑顔のある職場は大切なのである。
そういえば、アリアとルドガーの出会いって、どんなものだったんだろう。 全く接点が無さそうに見えるけれど……。 そう手を留めたところで、そういえば自分も随分と稀有な出会いを体験していたことを思い出して、少し笑った。
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