薄暗く、電灯の明かりも心許ない室内で、私はじっと息を潜めた。 光を圧倒する闇は、窓枠に切り取られながら、恨めしそうにこちらを見つめている。
「……あ、いい匂い」
無意識に零れた期待に、金属の音が返ってくる。
厨房から出てきた青年は、前髪を整えた普段のコック姿ではなく、青いシャツに細いボトムの私服を纏っていた。 厨房で腕を振るう背中も格好良かったが、オフの締まった衣装も、私は好きだった。
「おまちどうさま」
「ありがとうございます、ルドガーさん」
感謝への返事はなく、「いただきます」「召し上がれ」ただ穏やかな笑みが落ちてくる。
ルドガーさんは、トリグラフ中央駅で働く腕利きのコックさんだった。
元から腕が立つあまりに、食堂のやり方に慣れるまでが大変だったと聞いたけれど、それも器用にこなして今に至る。 すでに彼オリジナルのレシピも考案していて、近々メニューに加わるそうだ。 何より私がその味見第一号に預かったのだから、お客様に質問をされたとき、明確に美味しさをアピールできる自信がある。とんでもなく美味しいですって。
「……どうかな?」
「美味しいです! なによりトマトの煮詰め具合が完璧……!」
「それは良かった」
照れくさそうに「ありがとう」と笑うルドガーさんは、必要以上にフォークをくるくると回していて、巻き取られたパスタが球体を作っていた。 彼はあまり口数が多い方ではないし、私はウエイトレスで仕事中もあまり話せないから、この時間がとても幸せで、待ち遠しい。
このやり取りが始まったのは、私がここで働き始めてから一週間後のことだった。
一人暮らしで夜が遅く、割高の出来合いものばかり買って食べていた私に、仕事上がりのルドガーさんが声をかけてくれたのがきっかけ。 新作の味見をしてくれないかって、いかにも引き受けやすそうな言葉で、気を使ってくれて。 噂には聞いていたけれど、とても心配りが自然で、優しい人なんだなと思った。
それから時々、お互いにラストまで入っている日には、みんなが帰った後にこうして手料理を振舞ってくれる。 初めこそ仕事が終わった後まで申し訳ないと思ったけれど、渋るルドガーさんを押し抜けて、洗い物や後片付けは私の担当ということにして落ち着き、今日まで続いている。
もう、なんて幸せなんだろ! 分かりやすく言うと、私はとっくに彼にどっぷり惹かれているのだ。
「それ、俺の得意料理なんだ。兄さ……兄の大好物でさ」
「ルドガーさん、お兄さんがいらっしゃるんですね」
ようやくパスタの塊を解放したルドガーさんは、改めて巻き取った料理を口に運ぶ。 トマトの甘い酸味と、クリームソースの濃厚な舌触りが口いっぱいに広がって、一日の疲れも一緒に溶けていくようだ。
ご兄弟がいるという初耳に目を丸くしながら、なんだかちょっと羨ましいなあと、鮮やかなトマトに視線を落とす。 兄弟という存在自体にも、その生活にも。
「ここにもいらっしゃるんですか?」
「いや、忙しくてなかなか来られないらしいけど、家では俺が作ってるから」
「へえ〜、羨ましいなあ。毎日ルドガーさんの料理が食べられるなんて、きっと幸せですよ。食べ過ぎて太っちゃいそう」
「え」
この時の私は、何やら嫉妬のようなもので上の空であり、本音がぽろぽろ零れていることにも、それでルドガーさんのフォークに再び塊が形成されたことにも気がつかなかった。 だって、
「あ……あのさ、アリア。良かったら、今度うちに、飯食べに来ないか?」
「えっ」
今度は私のフォークが落ちた。
ぽかんと間抜けに口を開ける私とテーブルを挟んで、慌てたルドガーさんががたりと腰を上げた。 けれどフォークは手にしたままで、なんだか中途半端な格好になってしまって……てそうではなくて。
「あ、いや、変なつもりじゃなくて! 悪い、気が急いたというか……」
「き、気が急いたって、え……!? なな何のですか!?」
「〜〜っ、俺、水取ってくるから!」
多少荒々しくフォークを起き、ものすごい速さで厨房に駆け込んでしまったルドガーさんは、私の見間違いでなければ耳まで真っ赤に染まっていた。 きっと私はもっと早い段階で茹で蛸になっていただろうけど。
寡黙ながらちょっと茶目っ気のある、落ち着いたイメージであった彼の、なんていうか新たな一面を垣間見てしまい、アリアもなんていうかそれどころじゃない。
勘違いだったら死んでしまいたいほど恥ずかしいけれど、誘われた内容や彼の様子を見てもなお平静でいられるほど、アリアは幼くも鈍感でもなかったので。て。
(いやいやいや待って、落ち着くのよ私)
一度深呼吸をして、 とりあえず巻き取ったパスタを口に含む。 ルドガーさんの分冷めちゃうの勿体無いなって、そうじゃない。 どんな服を着て行こうとか、そうじゃ、ない!
まあまあまあ考えてもみなさい。イケメンで家事もできて性格も良くて腕っ節も強いらしくて、そんな好物件が野放しになってるはずがないじゃないの。 いやでももしかしたら万が一にでも、と、はやる心を抑えるが、胸は以前ともやついたままだ。 やだもう、そのうち黒い靄になって見えてきちゃいそう。
ほら、こんな風に。
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