何かを学ぶのは楽しかった。私がいるこの世界について、少しずつ理解することができる気がしたから。
 けど、もう学生服にアイロンをかけることもないのだ。もう優等生である必要なんかない。重たい学生鞄を下ろしてしまえば、私はもう、ただのアリア・セルシオだ。


「ここだよ」


 黒い扉を背に、私は彼へ、清々しい心地で宣言した。
 目的地に気付いた時点で驚いていた顔が、今は困惑をありありと出している。そこに紛れる大きな不安と、何かへの恐怖。その瞳に映っているのは過去の幻影だろうか。彼の右手がかすかに動き、彼の右ポケットを掠める。

 私は、彼にひどいことをしようとしている。
 けれど私は――私と『彼』は、この人に、どうしても伝えたいことがある。


「ルドガー、私だよ。入るね」


 いつもの癖で、ノックは二回。ずうっと前、私が部屋へ勝手に入ってルドガーと喧嘩になってから、欠かさずやるようになった挨拶。
 返事がないことを確認し、少しの寂しさを苦笑に変えて、私は扉をスライドさせる。



 ――合鍵をもらって、一番に始めたのは、この部屋のカーテンを開けることだった。
 彼の顔がよく見えないのは、とても悲しかったから。

 彼のお兄さんはいつも忙しくて、どうしても家を空けることがあった。だから私はそれを言い訳にして、よくこの家へ居座ってた。
 一番苦労したのは、兄弟が箱買いしていたトマトの処理だった。
 絶対に腐らせたくなかったから、トマトのフルコースが四日も続いた。途中から諦めて冷凍する方向に切り替えもした。
 私はトマトが好きだったけど、この兄弟……特にお兄さんほどではなかったので、二日目の夜には飽きていた。

 アイロンをかけるのが好きになった。
 襟までしっかり熱を当てておくと、お兄さんに褒めてもらえた。私には兄弟がいないし両親ももういなかったから、なんだかちょっぴり照れ臭かった。
 実は一度、出来心で、ドキドキしながらシワ一つない青のシャツをアイロンがけしてみた。
 少しヨレた。
 周りを見回して、目撃者がいないことを確認してからクローゼットにそっとしまった。

 掃除はいつまでもできなかった。
 何度もゴミ袋を手に取ったけど、その度に体が動かなくなった。
 見かねたお兄さんが掃除機でゴミを吸い出すのを、彼らの愛猫と遊びながらぼんやり見ていた。

 私には、大切な人がいる。
 その人に会いたくて、昨日も、今日も、きっと明日明後日も。出かける前にこの部屋に来て。閉め切られたカーテンを開けて。

 おはよう――と、その人に告げるのだ。


「……俺……!?」

「この世界のルドガーはね、」


 扉の前で立ちすくむ彼を置いて、私はベッドサイドに歩み寄る。
 とっくに星空が広がっていたけど、今日はカーテンを閉めないことにした。だって、街灯や月明りに照らされる銀色が、とてもきれいだったから。
 窓を開けて、外の風を呼び込んでみた。彼の髪が揺れて、風が彼を包むけれど、どうかこの夜の冷たい匂いがあなたにも届いていてほしいと思う。

 ――汚れ一つないそのベッドに、全身を黒く染め上げた、この世界のルドガー・ウィル・クルスニクが眠っている。


「恐ろしく、骸殻能力が高かったの。ある事件で能力を発現させてしまってからは、分史世界対策エージェントとして十二分に働いてた。けど異常に時歪の因子化が早くて……最近はもう、意識が戻るのも稀なの」


 ある女の子を守ろうとして、能力を発現させてしまった。その力がクランスピア社の目に留まり、ルドガーがエージェントとして活躍しだすまではあっという間だった。
 それはまだ、彼が少年の時代たった。当時のお兄さんの心情を想像することは、私には、きっとできない。

 いまだ踏み出せないでいる彼に手を差し伸べると、青年はぐっと眉を寄せ、一瞬床を睨んだのち、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
 揺れる瞳が、もう一人の彼を映し出す。その翡翠色を見たのは、なんだかとっても、久しぶりね。


「ね、聞かせて。あなたの世界の私は、どんな人なの? あ、もしかしたら知り合いじゃないかも?」

「……いや、知ってる。俺は、君をよく知ってるよ」


 そういって、ルドガーは目を伏せた。
 次に開かれた時には、その瞳には温かい光が宿っていて、私も少しほっとした。


「アリア・セルシオは、俺の友達だったんだ。クルスニクの一族で、底抜けに明るくて、人一倍優しかった。はは……俺のせいでトマトが好きになったから責任を取れーって言って、いっつも飯を食べにきてたよ」

「あー、そりゃあ仕方ないよね。ルドガーのご飯ってばおいしいんだもん。ねえ、私もまた食べたいよー、ルドガーさんやーい」


 つんと頬をつついても、彼に目覚める様子はない。仕方ないなあって絆されてくれない。リクエストを聞いてくれない。
 なぜだか急に、長いこと凝り固まっていたはずの涙腺が動き始めて、慌てて深く息を吐いた。呼吸が熱く、喉が震えているのを、もう一人のルドガーにバレていないといい。


「けど……アリアは、数年前に亡くなっていた。ある日突然家に来なくなって、ユリウスに聞いてもわからないって……いや、きっと分かってたんだろうけど……結局俺は、最近知った。彼女はずっと前から分史対策室のエージェントで、けど、時歪の因子化してしまって」

「……あ……」

「アリアの時歪の因子は複数に分裂して、それぞれに分史世界を作った。原因はわからないらしい。けど、君が他の世界の自分と繋がっているのも、きっとそれが原因なんじゃないかって……」

「そっかあ。だから私、世界で一番違うものだったんだ。なんか納得っていうか、すっきりしちゃった」


 じゃあ、私、正史世界ではもうルドガーに会えないんだなぁ。

 だめだと思った時には遅かった。大粒の涙が一つだけ、ぼろりとこぼれて、鼻の奥がぐずついた。よその『私』は私自身じゃないって分かっているのに、彼女がもうルドガーと会えないということが、ひどく悲しい。
 だってきっと、あなたも、彼のことが大好きだったはずなのに。

 その微かな可能性も、これから私は、摘み取ってしまうのだ。


「なあ、アリア。この世界の俺にも、守りたいものがあったのか?」

「うん。彼はそれをとても大事にしていた。彼の守るべきもののために、全てを尽くした」

「守るべきもの、か……」

「そして私にも、絶対に、守りたいものがある」


 風が吹く。ルドガーの髪が乱れたから、それをそっとどかしてあげる。
 黒いメッシュは消えてしまって、肌色の部分がもうほとんどない。瞳はもう長い間固く閉じられている。

 青年に向き直ると、一気に彼の目が強張った。それがなんだかおかしくて、切なくて、なつかしく――いとおしくて。
 私はそっと笑みをこぼす。

 ああ。
 あの時、少女が魔物に襲われなければ。
 家を飛び出していかなければ。
 素直に謝ることができていれば。
 ――あの時、行儀よく、彼の部屋の扉をノックしていれば。
 この結末を、変えることが、できたのかもしれないのだ。


「お願い、ルドガー。どうかこの世界を、」

「うあっ……!?」

「――破壊して」


 私が彼から手を放した瞬間。
 闇を纏った、夜風と比べ物にならないくらいの暴風が巻き起こる。
 私を中心とした、世界の歪みが発露する。
 圧に押され、目を見開いた彼が、私の名を呼んだ気がした。


「……この世界にある、魂は。元々、正史世界に生まれるはずだったもの。あるべき場所に還って、出会うべき人と出会うべき人たち。けれど、私という時歪の因子によって、この世界に囚われてしまった。その人たちを開放できるのはあなただけ」

「っ君は! ……怖くないのか!? 憎くないのか! 俺が何度も、何度も……君を手にかけてきたことを、知っているのに! 君が正史世界でどうなったかを知っても、それでも……!」


 彼の表情が苦悶に歪む。手がポケットに触れても、そこに収まるものを手に取ることができない。
 その慟哭は、彼が抱え込んできたもののほんの一部に過ぎないのだろう。
 彼のなすべきことの為に、犠牲にしてきた数多の願い。そしてこれから消えていくであろう何万の世界の人々。

 ああ。どうしていつも時歪の因子が私なんだろうって、何度も何度も思ってた。
 けど、今はこれでよかったんだって確信できる。


「たくさんの世界であなたと逢ってきた私だからこそ、わかるんだよ。数多の分史世界で、消えようとする『私』たちが、どんなことを想っていたか」

 だから、この言葉は私のものじゃないけれど。
 私は彼女たちを、そしてあなたを愛しているから、どうしても代わりに伝えたい。
 いや、私は――伝えなくちゃいけない。


「私はルドガーが好きだよ。この世界の、私の知ってるルドガーが好き。でも何より、『私』たちは、他でもないあなたに、幸せになってほしいと思ってる。……だから、赦されないだなんて思わないで。あなたが守ったものを、知ってほしい」

「アリア……俺は……っ!」


 世界の歪に蝕まれながら。それでも両の手を広げて声を張り上げる。
 彼の手に金色が光った。
 ああ、やっぱりきれいな時計。


「――進み続けてくれて、ありがとう!
 私に向き合い続けてくれて、ありがとうっ!
 『私』たちは、とっても、幸せよ!」


 出せる限りの大きな声で、出し切れないほどの想いをあなたに届ける。
 目の前のいとしいあなたに、隣で眠る愛しいあなたに。

 届け。
 届け。
 どうか届いて。

 失った悲しみだけじゃない。あなたに守られた数々の誇りを。
 あなたに救われた『私』たちの声を、どうか。


「――いってらっしゃい、ルドガー!」


 数多の選択の、その先に。見送れることの光栄を、私にとっての幸せを、あなたはきっと知らないだろう。
 槍で貫かれる救いの時を、私はずっと待っていたんだから。

 そんなに泣いていちゃ、せっかくの男前が、台無しだわ。





('160928)





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