眠るって、どんな感覚なんだろう。人の穏やかな寝息を見つめるたびに、少し羨ましく思っていた。なにせ皆んなが眠っている間、私はずっと一人で暇だったから。……まあ、ヘリオボーグの人達は、昼夜を問わず働いていた気もするけれど。
 一人で過ごす夜は長い。ルドガー家にお邪魔していると、ルドガーとエル以外に人がいないから、以前よりもずっと暇を持て余してしまう。少しだけ、ヘリオボーグが恋しくなった。あそこは常に、何かが動いているから、落ち着く。

 夜になるとやってくる。私以外、何も動かない。響かない。
 眠っている人を見るのが怖い。
 どうして人は、平然と眠れるんだろう。


「……静かなの、いやだな……」


 無音が嫌いなのは、私が風の精霊だからだろうか。
 それとも。




×






 朝が来て、日が差す前に、人の呼吸が聞こえ始める。
 待ってましたとばかりに、私はようやく瞳を閉じた。眠れはしないけど、こうしたほうが、音は良く聴こえる。
 市場でパレンジを並べる人。窓枠から垂れた朝露の反響。始発に駆け込む人。軽い足取りで散歩する犬。私を揺り起こそうと、必死な女の人の声。


「ウィリス! ねえ、ウィリス起きてってば〜!」

「……精霊は眠らないよ、レイア」


 瞼を閉じたまま呟くと、何度も頬をつつかれる。急かされてる。なんとなく重たい瞼を持ち上げれば、栗色の髪を揺らしたレイアが、ぷっくりと頬を膨らしている。


「も〜っ、やっぱり起きてた! ウィリスってば、なんで返事してくれないのよ〜……あ! もしかして、具合悪かった!?」

「ううん、なんでもないよ。ちょっとぼーっとしてたの、ごめんね」

「そう? うーん、ならいいんだけど……無理しちゃダメだからね。なんかあったらすぐ教えてよ、すぐジュードに連絡とるから!」


 じゃあ、すぐにでも起き上がって、その辺りを飛んでみせなきゃね。
 起き上がって伸びをしていると、キッチンの方からエリーゼとエルがやってきて、おはようと挨拶をした。まだ意識がぼんやりしているのか、耳の奥に膜が張ったような感じがして、気持ち悪い。


「レイア、エリーゼも。今日はどうしたの?」

「そうそう! 今日はね〜、これ! プロピンキスト特集の取材なんだ!」


 ばーん! と自分で言いながら、冷蔵庫から大きな箱を取り出すレイア。はて、プロピンキストとはなんぞや。素直に首を傾げてみせると、エリーゼから分かりやすい解説が入った。とにかくピンクかわいいものを愛するプロだとかなんとか。
 百聞は一見に如かずとばかりに、取材で得た写真、イラストの一覧を見せてもらったけれど、非常に奥が深かったとだけ言っておこうと思う。


「で、最後の取材はこのケーキ。いろんなパティスリーからエリーゼプロの厳しい目で選び抜いた究極の一品を、みんなで食レポしつつ写真を撮る会!」

「要するにお茶会?」

「そうともいうかも!」

「あ、エル、お茶入れてくる。ウィリスは何にする?」


 キッチンに目をやり、一番に目に留まった紅茶にした。エルはにこにこと頷き、エリーゼと共にキッチンに戻っていく。
 その間にレイアは卓上の準備をしていた。オフホワイトのテーブルクロスやカトラリー、それからなぜか生花や木の枝を取り出して、ああでもないこうでもないと卓上に配置する。曰く、女子の心ときめくフォトジェニックが何とか。

 全ての準備が整った頃には、卓上はすっかり花畑になっていた。ケーキを飾るために花があるのか、花の中にケーキが埋もれているのか分からないほどだ。果たしてこれでいいんだろうか。
 とはいえ、流石エリーゼプロが認めた一品は、花々の中にあっても輝いている。半球状のケーキは赤く艶めいていて、たくさんのイチゴがこれでもかと乗っていた。よくよく見ると、形や色が少しずつ違う気がする。じっと目を凝らしていると、横からレイアの指が伸びてくる。


「これはエンゲーブイチゴ、こっちはハルルイチゴに、スールズイチゴ! まるで異世界級の美味しさって書いてあったんだ〜!」

「エンゲーブイチゴには、烙印が押してあって、とても高級感がありますよね。それに、ハルルイチゴは珍しい桃色のイチゴなんですよ!」

「じゃあエリーゼ、これがスールズイチゴ? なんか凍ってるよ?」

「そうなんです! スールズイチゴは半解凍くらいが一番甘みが増して美味しいって、すっごく評判なんですよ」

「くぅ〜っ、もう我慢できないよ〜! みんな早く食べよ!」

「待ってくださいレイア! 写真がまだですよ。せっかくイチゴの配置まで完璧なケーキを選んだんですから、写真の角度、光の当たり方にまで拘らないと!」

「はっ……そうだった! も〜早く食べたすぎるよ〜……早く撮っちゃお!」


 なるほど、その為の装飾品だったらしい。レイア、エリーゼがああだこうだと花を細かく動かしているのを、エルと一緒に眺める。エルはあんまり興味がないみたいで、早くたべたいよーと唇を尖らせている。
 特集、と言っていたから、きっとレイアが記事にするんだろうな。じゃあ、妥協しちゃいけないか。敏腕編集長が、今のレイアの目標だもんね。

 ……いや、違う。わたしはそんなこと知らない。
 聞いたのは、『どっち』、だっけ?


「う〜ん、なんか違うんだよね……こう、もーっとふんわりかわい〜くできると思うんだけど……」

「えー! 十分キレーだし! もーいいでしょレイア、早く食べたいよー!」

「ううっ、でもでも、もーちょっと待って! おねがい!」


 やがて五分が経ち、スールズイチゴが全解凍しそうになって。
 もやもやとした気持ちが晴れなくて、わたしはつい、指先を振ってしまった。


「えい」

「あっ!?」


 ぶわりと、色とりどりの花弁が宙に舞う。流石に微風じゃカトラリーまでは浮かなかったけど。エリーゼとレイアが一生懸命配置していたのに、私が一瞬で崩してしまった。

 ひらひら、きらきら。
 陽の光と相まって、七色の粒が美しく煌く。
 あの夢みたいだ。彼女が──ユーリアがみんなと過ごした時間は、とても目まぐるしく、万華鏡のように輝いていた。

 うらやましい。
 ……さみしい。


「……あ、」


 三人が、ぽかんと口をあげて、ひらひらと舞う花を見つめている。
 わたしはぼんやりと風を起こしながら、ふとレイアの手元にあるカメラが目に入り、さっと血の気が引いた。……精霊に、血が流れてるのか、分からないけど。


「さっ……サッ……!!」

「……あ、あの、レイア……ごめ、」

「サイッコーだよウィリス!」

「へ」


 ワナワナと震えるレイアに、怒られると思って首をすくめたのに、レイアは頬を赤らめて笑った。
 つい力が抜けて、花びらがぽとぽとテーブルに落ちる。レイアが声をあげ、ずいとわたしに顔を寄せてくる。


「ね、もう一回やって! あとちょっとこの花右にできる!?」

「すっごく綺麗でしたね、ウィリス!」

「えっ……? う、うん、いいよ」


 言われるがまま、慌ててそよ風をふかせる。もう一度花が宙に開くと、今度はレイアとエリーゼはわたしに指示を飛ばし始め、配置が決まるのはあっという間だった。


「よーっし! 写真撮るから、みんな寄って〜!」

「え、わたしも写るの?」

「そんなの当たり前でしょー、ウィリス。ウィリスはエルとエリーゼの間ね!」


 ケーキが一番じゃないんだ、と、目を瞬かせている間にシャッターを切られる。それからレイアはケーキを撮って、ようやくみんながケーキの前に座った。すごく長かった。
 ケーキはとっても美味しくて、一粒食べるたびに歓声が起こった。綺麗なケーキを崩すのは、なんだかもったいない気もしたけど、一口食べてしまえば止まらない。

 美味しいな。これが甘酸っぱいっていうんだよね。
 ジュードさんも、これ、好きかな。


「ウィリス、おいしいですか?」


 紅茶で一息ついたエリーゼが、わたしの顔をそっと覗き込む。
 すっかりお姉さんになった、かわいい女の子だ。
 ……あ、いや、違う。エリーゼは元々おねえさんだし、レイアの髪は長いし、エルは私と頭一個分しか背が変わらなかった。

 みんなの姿に、わたしの知らないはずのみんなが重なって、くらりとする。
 わたしが彼女の姿でなければ、きっと、みんなここまで心を砕いてはくれなかった。いや、そんなことはない。みんな行きずりの人でも、困っていれば放っておけないような人たちだ。そんなこと知らないよ、わたしは初めて会ったんだもの。

 でも、知ってるでしょ?




「ウィリス、どうしたの?」

「……あ……ううん。おいしいよ。わたしの分も買ってきてくれて、ありがとう」


 慌てて笑みを取り繕えば、エリーゼはほっと頬を綻ばせる。よかったです、ウィリス、ずっと元気がなさそうに見えましたから。その言葉に、頷くレイアとエル。
 相変わらず、優しい人たち。


「そう、かな。ごめんね、心配してくれたんだね。ありがとう、みんな」


 嬉しい。嬉しいのに、この喜びが、どこから生まれているのか分からない。イチゴのように華やかな心に、ただひたすらフォークを突き立てている。
 膨れ上がる愛おしさと、伝えられないもどかしさが。
 わたしの首を、ゆっくりゆっくり、絞めている。



 

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