潮騒が耳を満たしたとき、ふと、そのまま流されてしまいたくなった。
 海にもまれて解けていって、微精霊になり、潮の香りをあの人に届けるのだ。



「よお。こんなとこで何してんだ、精霊サン」

「髭の人」

「アルヴィンな。まあいいけど」

 建物に寄りかかり、気障ったらしく挨拶される。伸びた髪を一括りにしていて、新鮮だと思った瞬間、ぱっと目を逸らした。
 口を引き結ぶ。潮の香りで、鼻の奥がつんとする。

「おたく、海好きなのか?」

「好きっていうか……初めて見たし、広いし、色が変わるし……ちょっと眺めていたくなったの」

「そうかい」

 返事をするたびに、唇を噛む。気を抜くと、この口は余計な事を言うから。
 断界殻が解けた事で、エレンピオスには緑が蘇り、リーゼ=マクシアには空模様の移り変わりが見えるようになったんだそうだ。両方を知っているらしい髭の人には、今の世界がどう見えているんだろう。
 ーーどうもこうも、本来の形に戻ったのだ。エレンピオス人の悲願だったのだ。嬉しいに決まってる。
 だって、その世界が大切なんだから。

「…………ねえ、髭さん」

「どんどん省略されてくな……まあいいけど。なに?」

「髭さんは、もし……もしも、だよ。自分の知ってる人が……」

 ーー生まれ変わってたら、嬉しいって思う?

 潮騒が、足元で壁を叩く。
 こんなふうに、研究所の天辺から足をぶら下げて、危ないと心配してくれるあの人に、手を振るのが好きだ。精霊は落ちたりしないのに。隣を歩き、一緒にものを食べ、好きなものを語らい、まるで人間の女の子みたいに扱ってしまう。そんなあの人のことが。
 この気持ちがなんなのか、しつこいほど、『彼女』が教えてくれるから。目を逸らせない。知らないフリなんて、とてもできない。

 美しかった。幸せそうだった。だから、大切なあなたに伝えてあげたいと思った。

 でも。



「たくさん話したいって思うのかな。また、前みたいに戻れたらって、思う……よね。大切な人なら、なおさら」

「……。さあ、どうだろうな。どういう関係だったかにもよるだろ」

「……うん……」

「まあ……心の底から大事なやつだったんなら、もう一度会いたいって思うのも、無理ないんじゃねえの」

 けどな、と、アルヴィンさんはすぐに続ける。

「俺たちはな、見た目が同じだけど、中身が違うってやつらとたくさん会ってきた。死ぬ気で生きてる奴らを全部無かったことにして生き延びたのが、今の世界だ。………少なくとも、ジュードやルドガーは、目の前にいるやつを、真正面から受け止める覚悟がある奴だよ」

「…………」

「ジュードは、どんなに苦しくても、真っ直ぐ前を向き続けるやつだ。……ま、羨ましいくらいにな。あいつは、そういうやつだよ。それは、お前自身が知ってるだろ」

「……うん」

 どうしよう、泣いちゃいそうだ。精霊の私にその器官は無いのに。泣き方だけを憶えてる。ユーリアはあまり人前で泣かない人だったけど。
 助けてほしいの。ううん、私のことは気にせず先に進んでほしいの。一人は寂しい、一人で良かった。

「あの日からずっと、頭の中が、ごちゃごちゃしてるの。みんなから、ユーリアって呼ばれるのが、とても苦しい。だって私は、ユーリアとそっくりっていうだけで、私以外になれない……」

「……ああ、そうだな」

「私はユーリアじゃない。けど私はユーリアなの。私は、ユーリアの事を誰よりも知ってるの。育った環境、彼女の思い、今際の覚悟、好きだった人たち……みんな知ってる。けど、違う。違う、私のものじゃない!」

「ウィリス、」

「ふとした時に、彼女の癖が出るの。みんなが変わらなくて愛おしいの。それがすごく嫌。ユーリアの大事なもの、盗ってるみたい。わたしだって死にたくなかった、みんなと一緒にいたかったのに!」

「ウィリス!」

 強く肩を掴まれる。ゆるゆると持ち上げた視線は、細められた瞳とかちあう。

「しっかりしろ。お前はウィリスだろ!」

「……ひげのひと……」

「ウィリス、なんだろ。お前がそう決めたなら、ちゃんとブレずに抱えとけよ。じゃないと、周りも見えなくなるぞ」

「それは、経験談?」

「口は達者になりやがって」

 ていうかアルヴィンだっての。と冗談めかして悪態をつく男の人に、ゆるゆると頷く。

「俺たちは、結構長く一緒に旅してきたもんでさ。そりゃ、そいつとそっくりな顔で、同じ記憶を持ってるやつが現れたら、どうしても重ねちまう。……本当に、悪いな」

 そんな、苦しそうな声で言わないで。
 ありがとうと言いたいの。ふざけないでと言いたいの。慰めたいし怒りたい。
 私たちの主張はぶつかってばかりで、確かなことなんて一つだけ。


「…………でも、私、ユーリアじゃない」

「そうだな。お前はウィリスだ。だからこそ、お前にしか、出来ないことってのがあるんだよ」

「私に……? なに?」

「俺たちはさ。……みんな、ユーリアがいなくなった時を知らないんだよな」

 一瞬、細波の音さえ消えてしまった。
 見開いた目に熱が溜まっていく。人間だったら泣いてたのかも。けど、私は精霊だから、涙を作る器官なんてない。ただ押し寄せる悲しみに、唇を噛むしかできない。
 そんなの、ひどい。かなしい。例え選んだのが彼女自身だろうと。
 孤独に耐えたユーリアを、その絶望を、誰も、知らないなんて。

「お前が言いたくないってんなら、俺はそれでいいと思うけどな。知りたいのは俺たちの都合だが、お前はお前だろ。お人好しのジュードくんは、きっとお前が苦しむのだって嫌がる」

「……ジュードさん……」

「けどさ。いつかおたくの気持ちに整理がついたらでいい。そのこと、ちゃんとジュードに話してやってくれ。きっと、一番知りたいのはあいつだからさ」

 そうかな。ジュードさんは優しいから、泣いちゃうかもしれない。ユーリアを思って苦しむかもしれない。
 私は辛いけど、ユーリアは違うかも。ユーリアも女の子だったから、自分を思ってくれるのは、きっとちょっぴり嬉しい。そしてやっぱり、私よりもずっと、かなしい。
 伝えていいんだろうか。伝えるべきだろうか。
 私はどうすればいいんだろう。
 どうして、喉の奥が、こんなに重たいの。

「そういや、お前、ちゃんとジュードに会ってるのか? マナ貰わないとやばいんだろ?」

「え? あー、それはそのー」

 髭さんの目が胡乱げに細まる。視線を縦横無尽に巡らせているうちに、頭部のバランスが崩れて天地が不明になる。
 まあ実は、飛行すらできなくて徒歩で来た。

「やばいかも。てへ」

「はあ!? ーーって、おいおいおまっ!」

 家庭用黒匣の電源が切れたように、ぷつりと視界が真っ暗になった。気が遠くなる中で、首根っこ掴まれたことまでは覚えてる。って猫かーい。




'200510

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