私の世界が変わったのは、間違いなくこの日だ。



 悲しいと、誰かが泣いていた。悔しいと、誰かが叫んでいた。愛おしいと焦がれていた。そんなノイズが、耳の奥で響いている。

「……そんなの知らない。私は悲しくない。悲しくなんかない。悲しいのは私じゃなくて、あなたでしょう、あなたの気持ちを私に押し付けないで」

 扉越しに声かけると、その人の鳴き声は小さくなった。けど、その人は泣き止まない。ますます慟哭は激しくなって、ドンドンと扉が叩かれる。

 ーー死にたくなかった。また会いたい。いとしい人たちにもう一度会いたい。会って、おめでとうと、ありがとうと、さようならを言いたい。それだけなのに。

 ドン、ドン、と、叩く音は強くなっていく。それでも扉は開いてくれない。どうして、と言われたって、そんなの。私にはどうしようもないのに。

「だって、あなたはもう死んじゃった。私は新しく生まれてしまった」

「あなたは私になれないし、私もあなたには、なれないじゃない……」

 絞り出した声に、彼女は扉を叩くのをやめ、けれど嗚咽は止まなかった。私だって泣きたいのに、彼女の居場所を掠め取ってしまった負い目がそうさせてくれない。こんなのを聞いてしまったら、もう、私は認めるしかない。
 私だって。
 ……私だって、ジュードさんにあんな顔させたくなかったよ。


 ×


 眩しい光が差し込んで、数時間経ったことには、気づいていた。他の女の子たちが、エルと私を置いて解散したのも聞いていた。精霊の私は元々眠る必要もなく、私は狸寝入りというズルをして、一度、ある人がルドガーと共に来たことも、知っている。
 その人とエルが出かけるのを、ルドガーは見送った。それから苦笑しつつ私をゆり起こす。しばらく私は抵抗していたが、起きてるって分かってるぞ、と、言われて、渋々降参した。

 何か、夢を見ていたような気がする。眠ってなんかいないのに、変な気分。

「おはよ。気分はどうだ?」

「……頭いたい……」

「はは……ウィリスは、アルコールにかなり弱いんだな。俺の知ってるマクスウェルもそうだったよ」

 精霊はみんな酒に弱いのかもな。そう笑って、ルドガーは飲み物を注いでくれた。トマトジュースとオレンジジュースを混ぜてくれたらしい。健康かよ、ブレないな。

「ルドガーさん、エルと……ジュードさんは?」

「ジュードは、エルと一緒に買い物へ行ってる。少ししたら戻ってくるんじゃないかな」

「そっか」

 じゃあ、さっき出たばかりだし、まだ少しは帰ってこないんだな。知らず知らずのうちに固まっていた体が、ほっと解れていく。
 昨晩、気がついたら、ジュードさんが、とても怖い顔をしていた。酔っ払った私が何かしてしまったんだろうか。記憶を飛ばしてしまった自分に腹が立つ。そして、ジュードさんに合わせる顔がないし、会うのが、ちょっぴり怖い。

「ウィリス。しばらく、うちで暮らしてみないか? ジュード、この先かなり忙しいみたいでさ……あいつの方から、俺に話があったんだ」

「ルドガーさん……」

 私がソファで膝を抱え込んでいるから、ルドガーは隣に腰掛けて、優しい眼差しを向けてくれる。一人暮らしでは少し広い家だけど、エルと一緒ならば、温かみを感じられる日々が送れているはず。
 ぼんやりと居間を眺めて、ハッと手すり側に身を寄せる。不思議そうに首を傾けたルドガーに、ドキドキしながら、

「……う、浮気?」

「断じて違う! 俺はラル一筋だっ!」

 違った。わざとらしく胸をなで下ろすと、ルドガーががっくりと肩を落とす。ルドガーには悪いけど、おかげで私も気分が上向きになってきた。ソファの上から足を下ろし、居住まいを正して、ルドガーにお礼を言う。

「わかった。そういうことなら、しばらくお世話になります」

「うん。部屋はここを使ってくれ。エルもここに住んでるから、わからないことは俺かあいつに聞くこと。足りないものがあれば揃えるから」

「ありがとう、ルドガーさん。……あ! ラルさんにはちゃんと事情説明してね?」

「はは……わかってるよ」

 とん、とん、と。大きな掌が、私の頭を撫でていく。きっとエルにいつもしているコミュニケーションなんだろうけど、なんだかむず痒くって、誤魔化すように俯く。
 直接使役をしてくれている、ジュードさんがそばに居ない。私に喜びを教えてくれた人がそばに居ない。ただそれだけで、世界にたった1人放り出されたように、心細い。

「ルドガーさん」

「んー?」

「ジュードさん、私のこと、嫌いになっちゃったかなぁ」

 ぼろりと、瞳から、大きな雫が零れ落ちた。
 驚いて瞬きをするたびに、水滴が頬を伝って、服を濡らしてしまう。悲しくて涙を流すなんて、まるで人間みたいだ。
 悲しい。悲しい。今すぐジュードさんに抱きつきたいし、笑ってほしい。逆に、今すぐ使役関係を断ち切って、消えてしまいたいとも思う。ジュードさんに嫌われるより、ずっといい。

「大丈夫。ジュードがウィリスを嫌いになったりはしないさ。ジュードはウィリスとの生活が心から楽しいって言ってた」

「……それは、私が、ユーリアという人に似ているから?」

 ルドガーさんが目を丸くして。それから、どこか寂しそうに、眉尻を下げる。
 ユーリア。私が、ジュードの仲間たちと出会うたびに聞いた名前。みんなが見間違えるほど、私とそっくりだったらしい。そして、それ以上、みんなはユーリアの話をしない。……少なくとも、私の前では、けして。
 きっと、素敵な女性だったのだ。ジュードも、ルドガーも、エルもみんなも、悲しそうな顔をするほど。大切な人。
 そしておそらく、もう二度と、会えない人。

「違うよ。確かにウィリスとユーリアは、見た目はそっくりだけど、全く別の存在だ。2人を同一視するのは失礼だって、俺たちの中で一番思っている……理解しているのは、他でもないジュードなんだから」

 その言葉は、実感のこもった声をしていた。私の知らない彼らの絆があって、私の知らないジュードさんがいて、たくさんの苦楽を共にしてきたんだろう。そしてそこに、ユーリアという人もいた。
 羨ましい。羨ましい。私もみんなと旅をしたかった。けど、悲しみを乗り越えて進む人たちに対して、浅はかな妬みを抱えた自分がひどく醜く思えて、本当に、消えてしまいたくなる。

「……まぶしいなあ」

「そうか? カーテン閉めようか」

「ううん。そのままにしておいて」

 醜い心を見られたくないから、奥に奥にとしまい込む。知らないものは知らないんだから、私にはどうしようもない。そもそも私、どうしてこんなに落ち込んでいるんだろう。確かにジュードさんに嫌われるのは怖いし、ジュードさんを傷つけるのも嫌だ。けど、それならなんだって、故人に嫉妬なんかしているんだろう。
 ぐいと涙を拭って、ほっぺを叩く。いつまでも、人の家で暗い顔なんかするもんじゃない。まずは、扉の向こうにいる人を、笑顔で迎えなくちゃ。



(’180226)

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