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「ノボリさん、あの」
「はい、なんでしょうか」
「あれ、なんですか?」
「あれは…ピカチュウですね」

ポケモンを模した黄色のバルーンに指をさして歩く私の半歩ほど後ろをノボリさんがゆっくりと歩いている
思い返してみれば、成人してすぐに今の仕事に就いた私は勉強や仕事に忙しく遊園地に来るのは本当に幼い頃ぶりだった

目新しいものが並ぶきらきらした通りに、少なからず心が浮かぶ

「あ、観覧車」

いつも遠くから眺めるだけだったまるいそれは、下まで来てみれば私が思っているよりもずっと大きかった

「乗りますか?」
「いいんですか?」
「ええ、行きましょう」

半身後ろにいたノボリさんが真横にきたと思うと左手で私の右手をすくいとり観覧車の真下へ向かって歩く
それがあまりに自然な所作だったから何も言えなかったけど、平日の昼間だからかそんなに人もいないし、気にしているのは私ばかりみたいでノボリさんは飄々としているからいいか、とぼんやり思った
きっとノボリさんはこういうのに慣れているんだろう

それより、見るばかりだったあの観覧車に乗れるなんて…中からはどんな景色が見えるんだろう
期待で足取りも軽くなる
私は私自身予想していなかったほど遊園地を楽しんでいた

ああ、早く乗りたい  


「きゃっ」
「ナマエ様!」

はやる気持ちが出てしまったのか、慣れないヒールなんて履いたのがいけなかったのか
前から歩いてきた二人組の女の人とすれ違いざまに髪の長い方の足に躓いて転んでしまった

「あ、あの!申し訳ございません」

前のめりに地面に倒れていく体はノボリさんに支えてもらって怪我をすることはなかった
相手の女性は大丈夫かと思わずお店での口調で謝罪する
二人組は歩を止めることなく、笑い声をあげながら去っていった

「大丈夫…みたいですね、よかった」
「大丈夫ではございません!ナマエ様、お怪我は?!」
「あ、私は大丈夫です、ありがとうございます」

ノボリさんが咄嗟に片腕を出して支えてくれたおかげで無事だった
足首を少し捻ったみたいだけど、歩けないほどではない

「すみません、私の不注意で…少し浮かれすぎたみたいです」
「いえ、おそらく…わたくしのせいだと…申し訳ございません」
「…? ノボリさんのおかげで怪我もしないですみましたし、ありがとうございます…ぅ、った!」

私を抱き留めて支える腕からそっと抜けて自分の足で地につけば、足元は思ったよりもひどい状況だった
躓いた左足のミュールのヒールは根元から折れてしまい、もう使い物にならなさそうだし、左足首は多少赤く腫れていた

思わずひとつため息をつく

「すみませんノボリさん、折角つきあっていただいたのに…わっ」

観覧車は諦めよう
遊園地からならお店まで近いし、もう片足のヒールを折って歩いていけるかな、なんて思っていたら、突然胃のあたりに浮遊感が襲った

「の、ノボリさん?!おろしてください!」

目の前の横顔と背中と膝裏の違和感に自分の状態を把握して必死に訴える

「しかし、その足では」
「歩きますから!」
「だめです、悪化してしまいます」
「でも、重いし、悪いです」
「…悪いとお思いなら、一杯奢ってくださいまし」

彼は今日、よく笑う







「立てますか?」
「はい」
「申し訳ございません…わたくしの」
「謝らないでください、折角誘っていただいたのに、台無しにしてしまったのは私ですし…それに、それでも私、楽しかったです」

お店につくまでの間、やっぱりたくさんの好奇の目を引いていたたまれなかったけど(ノボリさんはあまり気にしていない様子だったけれど)、ノボリさんのおかげでなんとかお店にたどり着いた
裏口から鍵を開け、ノボリさんにいつもの位置に座ってもらう

「結局ここに来てしまいましたね」
「ええ」
「何か飲みますか?」
「はい、あ、ナマエ様」
「はい?」
「これを」
「え…わ、いつの間に買ったんですか?」
「ナマエ様がピカチュウに夢中になっている間に」
「…ありがとうございます、今食べましょうか」

くつくつと喉を鳴らして意地悪く笑うノボリさんから袋を受け取り中身を出す
ヒトモシを模したカップケーキは食べるのがもったいないくらい可愛らしかった

カップケーキ…なら、紅茶、かな
でも、バーに来てわざわざ紅茶を頼む人は少なくて(ドライバーの人とか、全くいない訳ではないのだけど)、あいにく今すぐに準備できない

…仕方ないか
ジン、ウォッカ、テキーラ、ホワイトラム、コアントロー、レモンスカッシュにコーラをクラッシュドアイスを落としたタンブラーに注ぐ

目の前でその作業を見ていたノボリさんは不思議そうに私を見やった

「そんなにたくさん混ぜるのですね」
「ええ、どうぞ」

タンブラーと皿に盛り直したカップケーキを差し出し、自分もカウンターを出る

「一緒に、いいですか?」
「もちろん」

ノボリさんの隣に腰掛けて自分の分の皿とタンブラーを引き寄せた
外はまだ明るく、小さな窓から入ってくる光のせいで、喫茶店のような、カクテルバーらしくない雰囲気だった
開店の準備の時間まではまだ二時間ほどある
ノボリさんは軽くタンブラーを傾けた

「これは…!」
「ロングアイランド・アイスティーです」

目をまるくして私へ視線をよこすノボリさんに思わず笑みがこぼれる
ニューヨークのすぐそばのロングアイランドでつくられたこのカクテルは透けたブラウンの見た目はもちろん、たくさんのお酒が混ざっているなんて予想もつかないほど味わいがレモンティーのそれに似ている
微炭酸がアクセントになって、飲みやすいんじゃないかな、と思う

「…茶葉を入れられましたか?」
「いえ、入れてないですよ」
「これは、驚きました」

心底驚いたように言う
ノボリさんの言葉はいつだってまっすぐで、すんなりと私の心に落ちて、くすぐっていく

「ひとつひとつは紅茶からかけ離れた飲み物なのに、集まって別のひとつの味をつくるって、不思議で…でも素敵なこと、ですよね」
「はい」
「…このカップケーキ、おいしいです」
「中のクリームが甘くていいですね」
「食べるのがもったいないくらい」
「ええ、味も、見た目も」
「ノボリさん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」

平日の午後、穏やかでゆったりとして、心地いい時間が流れていった


4/2

偽物のティータイム



▲ロングアイランド・アイスティー
ドライジン、ウォッカ、ホワイトラム、テキーラ、ホワイトキュラソー、レモンジュース、コーラを氷を詰めたグラスに注ぎ軽くかき混ぜる
…本当にアイスティーに味わいの似た不思議なカクテル。ただ甘い割に非常に度が強いので注意。
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