自分が叫んだ言葉に、わたくし自身がひどく混乱していました。
それでも勝手に体が動き、ナマエの背後に駆けつけると、ほとんど転落しかけた腰に飛びつくように抱きつき、柵に足を押しつけて踏ん張りました。
すんでのところでナマエはこちら側に戻ってきました。引き上げたナマエの頭が勢いよくわたくしの胸を打ち、二人で尻餅をついて地面に転がりました。あの黒い帽子は、はらりと落ちて海に飲み込まれていきました。
「うぇ、っげっほごほ、っふ、はあ、はっ、大丈夫、ですか」
「え?あれ?」
自分が落ちたと思ったのか、自由に動く手足を見て疑問符を浮かべる。わたくしの両足の間でうずくまっていたナマエははっとわたくしの方を振り向きました。
「ナマエ…」
「…え?」
気づいてしまったのです。
二十年の間、恐らく、わたくしは、重大な思い違いをしていたようでした。
何かの鍵が思いがけずそっと開かれ、あるいは質の悪い呪いが時効を迎え、予想もしていなかったものが記憶の箱からぼろぼろとあふれ始めました。
ナマエが訝しげにわたくしを見つめる。どうすればいいのか、わたくしには検討もつきません。
「…もう、四十歳も超えましたね」
「…?」
「わたくしは、二十年前に戻ったということを、何か進歩的な活動に利用しようとはどうしても思えなかったのです」
ナマエの目がこぼれ落ちそうなほど激しく見開かれました。
まじまじと見てみれば、なるほどナマエの顔は確かに一周目の面影を少なからず残しているように見えました。ただそこには、辛さや苦しさ、孤独、暗さをじっとりと染み込ませたような雰囲気がありました。彼女がわたくしと同じように二周目を生きてきたことは明白でした。わたくしは二周目をそうして生きた人間特有の空気をナマエと共有しているとはっきりと感じました。
「あ、…あ」
「わたくしは何も変えたくなかった。そう願えば願うほど、全てが変わっていくものですね」
意味をなさない音がナマエの口から漏れ出る。
今まで追い求めてきた彼女とはよほど似ても似つかない間の抜けた表情に、わたくしもなんだか気が抜けてしまって、一つ大きく息をついて地面に寝そべりました。
「これは、どういう勘定になるんですかね、広い意味であれですか?浮気ですか?」
「…の、ぼり」
「はい、ノボリですよ」
「……いや、全然わかんない。意味わかんない…」
「そんなの、わたくしにだってわかりませんよ」
「はー…何、その敬語。おっさん臭いんですけど」
「ナマエこそ、その辛気臭い顔どうにかならなかったんですか」
「うるさいなあ」
「ですねえ」
「…これまでも、こうして誰かを助けてきたの?」
「そうすることもできましたね。言ってしまえば、かなり。でもしませんでした。何も。本当に全く、何もしなかったんです。貴女もそうでしょう?」
「……何だろう、すごく疲れた」
「ですねえ、お腹が減りました」
「ああ、あれ、ドリア食べたい」
「チキンの」
「そう。あのさ、どっちかっていうと、あれじゃない?」
「どれですか」
「同窓会で二十年ぶりに会った同級生が、前日に奥さんと離婚してて悲壮感漂ってる感じ」
「浮気のくだりですか。どうでしょうね。わたくしは熱狂的なファンだったアイドルの引退会見といった感じでしょうか」
「結婚会見じゃなくて?」
「結婚して、引退です」
わたくしはこの二十年来、明るくてよく気のきく彼女に憧れ恋い慕っていました。そしてナマエもおそらくは、明るく頼りがいのあるクダリに恋していたはずなのです。
わたくしたちは今や間違っても明るい人間とは言い難いですし、わたくしもナマエも、言葉の端々には皮肉めいたトゲがはえていました。二周目はわたくしたち二人を全く違う人間に変えてしまいました。
それでもわたくしたちはどちらともなく笑いを漏らしました。耐えきれずに。薄紫の星空の下で、崖っぷちの地面に身を投げ出し笑い合う二人の男女はどれほど狂人に見えたかしれません。
時間の悪戯に絶望し、世の辛酸と苦渋を舐め尽くしたようでいてここまで純真に笑えるのはナマエのおかげなのかどうなのか。不思議な話ですが、自ら捨て去ろうとしたこの二十年を捨てきらなかったことに、いまではひどく安堵している自分がいるのでした。
笑い声を聞きつけてか、いつの間にかクダリと彼女がこちらに近づいてきているのが頭上に見えました。
わたくしはこの時、本当に、心底疲れ切ってしまっていて、急ぎその場を離れるどころか起き上がって身を取り繕うだけの気力もなかったのです。わたくしの足の間に座るナマエもまた、彼らに気づいていながら動くつもりはないようでした。
「…兄さん…?」
クダリは抱いた疑念を確信に変えきれないままに、というよりは違っていてほしいという希望をこめて、呟くように問いました。その間も着々とこちらに歩み寄る。
「はい、ノボリです」
「え?と、え?兄さん?何で?何してるの?」
慌てふためく弟の姿も、どこか笑いを誘いました。ナマエはぎくりと身を固まらせ、緊張したような面もちでわたくしに視線を寄越しました。
「二人で、海でもみようと。クダリたちもですか」
「あ…えと、うん。兄さん、そちらは、彼女さん?」
彼女さん。だめだ。いちいち笑ってしまいそうになる。こらえきれなかった分は口の端に追いやって、わたくしはナマエと目を合わせる。
「どうなんですか?彼女さん、なんですかねえ」
「何それ、私にふらないでよ」
「どっちがいいですか?」
「もう、どっちでも」
熟年カップルじゃん、とナマエが投げやりにごちて、もう限界でした。
二十年は長いようでいて、終わってみればこんなものかな、とも思いました。
ひいひい笑い合う二人に、さっぱりついていけない二人。ちょっと可笑しそうに、「仲がいいんだね」と言う彼女の左手の薬指には幸せの結晶が光っていました。
まあ、今日初めて始まったばかりの人生なのだから、そう焦るものではない。少女的な、運命論めいた台詞の準備だってありませんし、実を言うとわたくしには今、手渡せるものなんてほとんどないのです。取りあえずのところクダリに「おめでとうございます」と言えば、顔を真っ赤にして「いつからいたの」とぷるぷる震え始めました。手始めに、今日の夕食でもご馳走すればいいでしょうか。始まりの食卓がドリアだなんて、いかにも平凡で身の丈に合っている。座り尽くすナマエの手を取れば、呆れたように微笑みが返ってきました。