ところでわたくしは大学に通う以外はクダリとルームシェアをして暮らしておりました。2DKの学生にしては広めのアパートを借りて、クダリと二人で住んでいました。これは入学のときにクダリが強く希望したことでした。
両親はクダリの意見を聞き入れましたし、わたくしも特に反対することもなく、クダリとの同居を承諾しました。
クダリは相変わらずわたくしに気を遣っていたのです。心優しく、実直で、無知な子。友人という友人を作れないわたくしを学生の喧騒に誘おうというクダリの目論見は透けて見えるようでした。クダリ自身もそこまで過美な生活は好まないでしょうに。
初めてクダリと彼女がまぐわってから、クダリはやはり何度か申し訳なさそうにわたくしに都合を尋ね、そして数度あの例の部屋でことを行ったようでした。
しかしそれも受験の始まりとともに息を潜めていきましたし、わたくしの方も順調に、徐々に、猛る妬みを鎮め、諦めにも似た気持ちを育てていったのです。
クダリと彼女の交際に、わたくしは半ば微笑ましさ、愛しさすら感じ始めていたのでした。
そういうわけでクダリとの同居にこれといった抵抗はありませんでした。
「兄さん、今日新歓があるんだけど 」
「ええ、わかりました。行ってらっしゃいまし」
「…兄さんも、一緒に」
「今日は遠慮しておきますよ。クダリ、楽しんできてください」
「……だよね、じゃ、僕もやめとく」
キャスターの画面に目を落とし、何やら操作をする。クダリはいつもこのようにわたくしを誘いますが、無理強いはしたくないのか、強くは出てきません。
何度かこのアパートにも友人を呼んだようですが、それらも事前に察知してうまくかわしました。後になってクダリが少し落ち込んだ様子で『兄さん、出かけてたんだ』と言いましたが、そのちくりとした胸の痛みは決してわたくしを積極的な方向へ突き動かすわけではありませんでした。
意地をはっていたのかもしれません。
わたくしにはクダリの連れてくる人々がおぞましく汚れきっているようにさえ見えていたのです。
ある日、講義を終えてアパートに戻ると、一対の見慣れないパンプスがわたくしを出迎えました。
空き巣の類であればこんなに懇切丁寧に踵まで揃えて靴を並べることもないでしょう。少しの警戒と疑念を持って部屋に上がれば、果たしてわたくしの予想通り、ダイニングを突き抜けた先にあるベランダには見紛うべくもない彼女の後ろ姿がありました。
物音に気づいたのか、彼女はこちらを振り向くと一瞬目を丸く開き、合点がいったように微笑みました。ベランダまで歩み寄るとどちらともなく窓を開ける。
「ごめんね、お邪魔してます。クダリ…さんのお兄さんだよね?」
「はい。ノボリと申します」
「クダリさんとお付き合いさせていただいてます」
彼女は同い年なんだから敬語じゃなくていいのに、とあっけらかんと言いました。
「口癖のようなものでして。すみません」
「クダリの言ったとおり、すごく礼儀正しいんだね」
不思議とわたくしは落ち着き払っていました。胸を焦げ付かせるほど熱く、狂おしいほど激しく欲したはずの彼女を前にして、わたくしの心は風に揺れる湖面ほども動くことはなかったのです。
「……あ、ごめん。臭いかも」
彼女がはっとして手元に目を遣る。
その視線を辿り、今度はわたくしが目を丸くすることになりました。
「…煙草、吸われるのですね」
「うん。意外だった?」
「ええ。正直なところ」
「やっぱり。クダリにも言ってないの。あの人、絶対にやめろって言うでしょ?身体に悪いから」
「でしょうね」
「だから、二人の秘密ね」
ばつの悪そうな表情を悪戯っぽい笑みに変える。わたくしをつられて微笑みました。
二人の秘密 このときわたくしは、優越でも情欲でもなく、ひとつの凝りがほぐれたような、とろりとした温かさを感じました。
一周目のわたくしは、彼女の全てを知り、彼女に全てを知られているものだと思っていました。互いに、ぴたりと通じ合っていると。
彼女が喫煙者だったなど、知りません。
わたくしは一周目でさえ、彼女の全てを知り、共有しているわけではなかったのです。
ほんの少し、慰められたような心地が致しました。
彼女は携帯用の灰皿を取り出すと、まだ長さの残る細い煙草をぐりぐりと押し付けました。
「きっかけが必要なの」
「きっかけ?」
「そう。何かを始めるのに、まずい煙を吸って、また吐くっていうのは、私にとって結構有効だったりするの」
「おいしくはないのですね」
「うん、すごくまずい。できたらおいしいもの…チョコレートとか、パスタなんかがそんな効果を持ってたらいいんだけど、残念だけど優秀なものっていつも何か欠点がある」
「節目節目にパスタが必要になるよりいいかもしれません」
「ふふ、そうだね。いつも満腹だと、きっといい働きは望めないもの」
ダイニングの椅子に座る彼女と、しばらく他愛もないことを話しました。ここ十数年来誰かと談笑するなどという経験はありませんでしたが、彼女と話していると自然と言葉が口を出て行くのでした。彼女にはそんな雰囲気(能力と言ってもいいかもしれません)がありました。
わたくしは彼女に紅茶を出し、彼女は目を細めて美味しそうにそれを飲みました。一時間ほどそうして過ごしたでしょうか、慌ただしく玄関の戸を開ける音がしました。
「た、だいま」
「おかえり」
「おかえりなさいまし」
急いで帰ってきたのでしょう。息を切らしたクダリはダイニングの戸を開けると、やはり目を見開いてしばし固まりました。
「え、と」
「お邪魔してます」
「うん、ノボリ兄さん、この人…」
「はい、お聞きしました」
「そっか…本当は僕が紹介したかったんだけど」
僕の彼女です。少し改まって言う。二回目の、よろしくお願いします。
わたくしは立ち上がって、クダリの分のカップを取りにキッチンへ行きました。
「昨日、合い鍵を渡したんだ。ごめん、先に兄さんに言うべきだったよね」
「いえ、構いませんよ。クダリの家でもあるのですから」
「兄さん、今日は早かったの?」
「ええ、四講目から休講でした」
「五講終わって、家に来てるってメール見て、急いで帰ってきたんだ。あ、ありがとう」
「いえ。ミルクと砂糖は?」
「ん、いらないよ」
わたくしは一つ席をずれて、クダリの正面に座り直しました。隣り合うクダリと彼女に、わたくし。これは客観的に、なかなか奇妙な食卓だと思いました。
「夕食は食べて行かれますか?」
「いいの?よかったら、ぜひ!」
「食べられないものは?」
「うーん…ない、です」
「では少々お待ち下さいまし」
「兄さん!僕がやるよ」
「おや、構いませんよ。楽にしていてください」
「でも…」
「実は朝のうちにほとんど仕込んであるのです。今日はわたくしの当番ですからね」
「今日は何?」
「今日は…ドリアです。チキンの」
「わかった。ありがと、兄さん」
立ち上がったクダリはまたゆっくりと椅子に腰掛けました。
そうして何でもないことを話すクダリと彼女。ふわふわ笑い合う二人は正しく物語の主人公でした。
ドリアはなかなか好評でした。その物語では恐らくわたくしは一人の給仕に過ぎないのだろうと思いました。