クダリと彼女の交際は概ねうまくいっているようでした。
親しく付き合う人間のいなかったわたくしはこの頃よくよく敬語が板についてきました。どこにいても自然と 家族に対してでさえ、丁寧な、あるいはよそよそしい言葉遣いが口をついて出ました。
一周目であれほどわたくしに期待し、どんなときでも暖かく背中を押してくださった両親は、暗く、理解できない息子を持て余し、恐れてすらいるようでした。一周目とのその変化をわたくしは受け入れることができませんでした。次第に、なるべく距離をとりたいと思うようになったのです。慣れてしまえば敬語の方がしっくりくるのでした。18歳の頃のこと。
欠点だらけの二周目で唯一地に落ちることがなかったのは学力だけでした。二度同じことを学んだのですから、嫌でも定着するというものです。都合一周目より本をよく読みましたから、幸か不幸かそれも影響したのでしょう。
わたくしは一周目と同じ大学に難なく合格しました。クダリと彼女も同様に進学したようでした。
大学でも変わらず、およそ起伏のない生活を送りました。
計四十年程生きているわたくしはどこか達観したようなものの見方を手に入れていました。
一周目でわたくしが付き合ってきた種類の人間がどれほど醜悪な、薄汚い一面を持っているのか、この時初めてまじまじと突きつけられ、知ることになったのです。
利害、自尊、おおよそそういったものが絡んでくると、彼らの軽やかな笑顔の下に蠢く重々しい鉛のような自己愛が見え隠れするのでした。
そんな中で、クダリと彼女だけは一層白く、美しく、魅力的でいっそ神々しくさえありました。
つまり二人は、心の底から、汚れなく互いを、他人を思いやっていたのです。
あの時のわたくしが つまり今のクダリが、人のもう一面に気づけないことは無理もないことでございました。クダリに触れるとき、その白さの前に人は毒気を抜かれ、(一時的にしろ)善人のように振る舞うのでした。あるいはその穏やかで好意的な水面の下でクダリに取り入ろうとしていたのかもしれません。
わたくしがそれに気づいたのはもちろん、わたくしが今、白くも美しくもないからです。どうでもいい人間の前では、人は安心して自分をさらけ出すことができるのです。
一周目のわたくしがこうして本当の意味では世間を知らなかったということは、わたくしをどこか安心させ、和ませたことでもありました。