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『お願いナマエー!押し倒したのは謝るから取りあえず出勤して!お願い(>_<)』



間の抜けた顔文字が彼の謝罪の意だとか切迫感をごっそり削ぎ落としていた
仮にそれがひどく真面目な文面だったとしても、出勤するつもりはないけれど

『体調不良により本日欠勤させていただきます』

そんな色気のない文面を昨日のメールからコピー、ペーストして返信する

残っていた有給を目一杯使って、私はしばらく考えた
身の危険を感じたのでエメットの家は早々に後にした
とにかくギアステから離れようと、今はヒウンのポケモンセンターにいる
ただ、距離は離れられても精神的にはなかなか今までの生活から離れることができなかった

ポケモンセンターの一室で、毎朝起きて、コーヒーを淹れようとして、はっと気づいて火を止める、それの繰り返し
私はコーヒーが飲めない
寝起きの悪いインゴのための日課が、全然抜けなかった



辞めよう

それが私の出した結論だった
しばらく勤めてきた愛着のある職場だけど、あまつさえ、上司の家に入り浸った上飛び出してきたとなれば、これからの処遇にも身のやりかたにも不安しかなかった

真面目に働いてきたためにたまっていた有給もそろそろ底をつく
最後まできっちり使い切ってから、辞表を出してやる



今日もまたはっとコンロの火を止めて、ベッドにぼすん、と逆もどりした
ポケモンセンターっていうのはありがたいところだ
狭いけどコテージ風の部屋はトレーナーのショートステイにはぴったりで、こんな場所が無料なんて、良心的過ぎて涙がでてくる
ほんと、なんではじめにエメットのとこなんて行ったんだろ
ごろごろしながら、昨日フレンドリーショップでもらってきた無料の求人誌を開いた
ポケモンセンターにずっと泊まり続けることはできないし、旅をするにもどこかに住むにも、とにかくお金が必要だった
貯めていたお金が底をつくまで宙ぶらりんの生活なんて、いくらなんでも不安すぎる


皿洗い…安定していた駅員とくらべると、少し心許ないかな
病院事務、あ、なんか資格が必要みたい、だめだ
工事現場って…こんなガテン系のもあるのね、さすがに無理かも
在宅するにも家がないし、会社員は定住所が必須だし
世の中そんなに甘くないか、とページを次々めくる
あ、カフェのホールスタッフ、接客業だし、これはなかなかいいんじゃないか  


「オマエでは皿を落とし、台無しにするのが目に見えていマス」
「そんなの、やってみないとわかんないじゃん」
「イイエ、わかります。オマエは普段の仕事からドジで不器用で失敗ばかりしますから」
「そ、そんなことないもん」
「そんなことありマス。そんなオマエにちょうどいい仕事がありますよ」



聞こえてきた慣れた声に、無意識に受け答えをしていたらしい
ふと、気づいたときにはもう遅かった

熟読していた求人誌は取り上げられて、部屋の隅の方に乱暴に投げ出された

「うわあ?!イ、イイインゴ?!」
「ハイ、インゴですよ」

インゴは私がごろごろしているベッドの横に、仁王立ちしていた
その顔でそのポーズは怖い、やめて
というか私ドアを開けた音聞いてないんだけど
思わず喉がひくりと震えた

「い、いつ」
「つい先ほど」
「どうして、ここ…」
「ワタクシの情報網をあまり侮らないでくださいまし」

なにそれ怖い

インゴは肩をわずかに上下させていた浅い呼吸が薄く開いた唇から漏れていて、走ってきたのだとわかった

「ど、どうして、来たんですか…私、インゴさんと何の関係もないでしょう」

もしかして探していたのかと、期待する気持ちを押し殺して言った
ここで負けたら、また元通り
私は、なんでもない、ただ都合のいい女になる
そう、私はインゴと関係ないの
そうでしょう?


インゴは目を見開いて押し黙った

「今まで勝手に家に居座ってご迷惑をおかけしました」
「…」
「すみませんでした…もう、いなくなりますから…これ、」

私はベッドに腰掛けたまま腕を伸ばして机の上の封筒を取り、目の前で微動だにしないインゴに差し出した
本当はギアステに行くつもりだったけど、本人が来たならちょうどいい
準備しておいたそれには、「辞表」と大きく書いた

にわかにインゴの顔から表情が抜け落ちる
海のように深い青が揺らめいて私の目をとらえた
口だけを動かして問う

「…辞めるのですか」
「…はい」
「どうしてですか」
「っそれはっ」「嫌です」

インゴは私の手から辞表を奪うと私の目の前でびりびりとそれを破り去った
親の仇のように、執拗に、細かく千切って、一文字も読むことなく床に散らして踏み潰した

「何してるんですか!」
「受け取りません」
「そんな、勝手すぎます」

ほんとだよ、いつだってインゴは勝手だ
勝手で、人の気持ちを弄んで
勘違いした私だって悪いかもしれないけどね、インゴだって大概だよ

浮かんできた涙をこぼすまいと青いきれいなビー玉のような瞳をキッと睨んだ
泣いたら負けだ、泣いたら、負け
インゴの表情は戻ってきてはいなかった
それを少し怖いと思った

「受け取りません」
「また書きます」
「繰り返しても同じことです」


不意に、インゴの手が私の方にのびてきた
あまりに突然だったから反応できない
あ、殴られる?  


「…ワタクシだけだったのですか」


その手は私の頭の後ろに回されて、少しの逡巡の後、後頭部に大きな手が触れた
それは、不安げに細かく震えていた
その手に力がこもって、目の前のインゴの胸に頭が押し付けられる

「何が不満ですか」
「…」
「ワタクシが…何か、気に入らないことがあるなら努力はします」
「…」
「ナマエ、ナマエ」

いつも自信たっぷりのインゴの声は、手と同じように震えていた
さらに強く頭を押しつけられて、少し苦しい

「…ナマエ、ワタクシ、朝起きられないのです」
「…」
「ナマエがいない間、仕事にすべて遅刻してしまいました」
「…」
「出勤しては無意識にナマエを探していました」
「…」
「毎日がひどく色のないモノになって…ワタクシ、気が狂いそうなのです」

助けてください

「ナマエ、オマエを…アナタを大切に思って、必要としているのは、ワタクシだけだったのですか」



「…インゴ、」
「ハイ」
「苦しい」
「すみません」
「…ご飯は」
「ハイ」
「ご飯は、たまにはインゴが作ったの、食べたい」

「私のご飯も、本当にときどきでいいから、嘘でもいいからおいしいって言ってほしい」
「掃除してるときくらい動いてほしい」
「洗濯物、ティッシュと一緒に出さないでほしい」
「もっと一緒に出かけたりしたい」
「私がいなくても、朝起きてちゃんと仕事に行ってよ」

「……勝手に出て行って、ごめんなさい」



緩んでいた力はまた痛いほどに強くなった


「それで、いいのですか?また、私の隣に戻ってきますか?」
「…うん」
「ナマエの作るものの方がよっぽどおいしいのに」
「そんなこと、ない」
「しかし、最後の願いは叶えてやれそうにありません」
「?」
「ワタクシの頭はすでに、ナマエの淹れたコーヒーでないと覚めないようになっておりますので」
「なに、それ」


くす、と小さく笑うと、インゴは私の頭をゆるりと撫でた
どうやら私は負けたようだった
インゴは私を抱きすくめたまま、私の耳に口をよせた



「ああ、それと」
「?」
「次の就職先ですが」
「えっ?ギアステに戻れるんじゃないの?!」
「ええ、戻っていただきますよ?ただし」


ワタクシに永久就職していただきますが



「…なにその寒い台詞」
「その割に顔は暑そうですが」
「うるさい」
「ナマエ」
「なに」
「愛していますよ」
「…ずるい」
「返事は?」
「…私も、すき」



採用条件:相思相愛

「そういえば、ナマエ」
「ん?」
「エメットの家に行ったそうですね」
「えっ?あ、ええと」
「楽しかったですか(ニッコリ)」
(ひいいい!)
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