私は自分が特別頭がおかしいとも意志が弱いとも思わない。だから頭がおかしいのはいつだってインゴだ。こういう結果になったのも、ひとえにインゴの暴虐無尽な、暴力的な冷静のせいだ。
「だっこー!」
「はいはい」
ぱたぱたという足音が、洗濯物を干し終えた私の足元で止まった。愛くるしく、あの男と同じネイビーの瞳で私の目を覗き込む女の子を抱き上げる。壊れてしまわないように、やんわりと。
「あのね、パパが、お茶のお時間です、って」
「あら、もうそんな時間?」
つい最近喋れるようになったばかりの彼女はもう簡単な文を組み立てて話すようになった。利発な子だ。
抱き上げた腕の中で身をよじり、楽しそうに私の髪の毛を触る。
もう二年と半年前になる。
置き去りにされたチケットを握りしめて住み慣れた部屋を出たのは。今思うと信じられないことに、部屋の解約すらしていなかったのだ。会社は無断で休めば首になるけど家は無断で引き払っても家賃が発生する。このせいで私は後からかなりの面倒を強いられることになる。契約書、手続き、中途解約。本当、思慮を欠いている。
連絡の一つも寄越さないで飛び出して来たから、空港に迎えなんてなかった。とにかくニンバサへ。サブウェイへ。
果たしてインゴはステーションにいた。あからさまに偉い人の立ち振る舞いで、澄ました顔をして。おかしなコート。
人の流れにのって近づいていくと、頭一つ高い位置から乗車客を俯瞰するインゴが私に気づく。一度さらっと視線が通り過ぎていって、またすぐにぱっと戻ってくる。まじまじと見つめられる。僅かに目を見開いているのが愉快だった。
「久しぶり」
「ええ…どちらに行く予定で」
「予定?予定なんかないわよ。ちっとも。まったく。実のところ頼りもない。ほとんどどこにも行くことなんてできない。その、できればインゴの部屋にでも居座りたいんだけど」
「いいんじゃないですか。反対じゃない」
インゴは私の手を軽く引いてスタッフオンリーのドアをくぐった。来客用の応接室に通されて、ソファに座らされる。
「お茶にしますか、それともコーヒーを?」
「コーヒー」
黒いマグに並々そそがれたコーヒーの黒い水面が蛍光灯の白い明かりを反射する。手渡されたそれを両手で包んだ。インゴが私の隣に腰掛ける。
「このソファ、ひどい座り心地だわ。焼いたマシュマロに腰掛けてるみたい」
「ああ、確かに」
「ねえ、本当に行ってもいいの?」
「ワタクシは言いました、反対でないと」
「聞きたいのはそういうことじゃないのよ、その…」
「もし、アナタさえ嫌でなければ」
「…エメットさんは言ってたわ、私がインゴを愛してるって」
「エメット?ああ、それで」
納得のいったような声をあげる。
「だったらなおさら来ればいい」
インゴの胸元から電子音が鳴る。インゴはすっと立ち上がって部屋を出た。私は一人応接室に取り残される。夜の7時まで。
インゴがもう一度応接室を訪れるまでに、二人の人がこの部屋に入ってきた。一人は名前の知らない駅員さん、もう一人はエメットさん。
「あっ」
深緑の制服を来た駅員さんはノックもなしにガチャリとドアを開けると、私を見て慌てて出て行った。ドアが閉まる。少しして、小さなノック。コンコン。
「失礼します」
「お邪魔してます」
口の端からゆるりと笑みが漏れるのを止められなかった。ノックからやり直すなんて、なかなか律儀な駅員さんである。
「すみませんでした…誰かいると思わなくて…」
「気にしてませんよ」
顔を赤くして、折っていた腰を真っ直ぐに正す。
「誰かお待ちですか?」
「ああ…えー、インゴ、さんを」
「ボスを?」
途端表情をきりっとした懐疑の色に染めた彼は、多少不躾な視線を私に浴びせた。そして未だ私の手の中にあるマグに目を留めると、眉間に薄く皺を寄せる。
「…失礼ですが、どちら様ですか」
「え、と…」
常識的な反応だと思った。正常な人に触れたのはもう大分久しぶりな気がした。
そして、私はここで、身分を持たない。住所も職も捨ててしまった。何と答えられようか。
沈黙の長さと比例するように、駅員さんの眉間の谷も深くなっていく。
「…どこから入ってこられたんですか?」
「え?」
「ボスの私物まで使ったら、もう言い逃れはできませんよ」
マグカップは備品ではなく、インゴの私物だったらしい。恐らく、十中八九、不審者(それもストーカー紛いの)と思われている私が、どう誤解を解こうか思案しているうちに、またドアが開いた。荒っぽく。ノックはない。
「さっきインゴに来たって聞いて あれ、どうした?」
「ボス、こちらの方…」
「ああ、ナマエチャン、インゴのワイフ」
「わっ、ええ?!」
あっけらかんと言い放ったエメットさんに、駅員さんは私よりもいいリアクションをしてくれた。
「エメットさん、誤解を生む言い方は避けてください」
「でも間違ってはない。違う?」
「それに関しては、違う、と思います」
「じゃあインゴを愛してるってとこはあってる」
あげ足を取るように、にこやかに言う。
「あってるからココに来た。そうだよね。それにしたって早いね。あのチケット、一ヶ月はフリーだったでしょ?」
「…遅いよりは、早い方がいいかと思いまして。チケット、ありがとうございました。お金は後で払います」
「大丈夫、インゴにツケとく」
駅員さんは、可哀想に、すっかり混乱しきってしまっていて、眉尻を下げて私とエメットさんを交互に見比べていた。
「あ、キミ、そういうコトだから」
「あ、は、はい!失礼しました!」
何か用事があって来たんだろうに、駅員さんは結局何もできずに深く頭を下げて出て行ってしまった。悪いことをした。
「…正直なところ、愛とかどうとか、よくわからないですよ」
「でもキミは来た。それで十分」
ぼそりとごちた言葉にやっぱりよくわからない返事が返ってきて、私はエメットさんを相手にした色々なことを諦めた。『確認したかっただけ』と言ってエメットさんはその後すぐに出て行った。ウインク付きで。
「すぐそこです」
「うん」
本当にこの街は、ライモンによく似ている。地下鉄を中心に発達した、ターミナル的な街だ。濁りのように人が集まってはまた出て行く。
インゴはあの奇抜なコートを脱いで、黒の薄手のジャケットを羽織って扉を開けた。うたた寝していた私はドアの音で起こされた。
左手で私の右手を取り、長いコンパスをゆっくりと動かす。
インゴのマンションは上等だった。少なくとも私の部屋よりは。パチン、パチンと電気をつける。シンプルな家具が、そこにいることを義務付けられているように文句もなく整然と並んでいる。
結局私はこの部屋の住人になった。
インゴは毎日髭を剃って、整髪料の匂いを撒き散らして、コーヒーを淹れて、仕事に行った。特に何かが変わったとも思えない。私はと言えばしばらくは手紙やメールのやり取りに忙しくしていたけれど(たくさんの人に迷惑をかけた)、それもひと月ほどで終着していったし、あとは雪崩のように出産、育児をすることになる。
「パパ、ママ連れてきた!」
「ありがとうございます、レディ。コチラにどうぞ」
どちらかというと連れてこられた格好で、腕の中の娘はきゃあきゃあはしゃいだ。彼女はお姫様ごっこに夢中なのだ。
インゴは椅子を引いて、私は娘をそっと椅子に下ろす。彼女はにっこり笑って、スカートの裾を持ち上げた。「ありがとうございます」
「あのね、あのね、またお出かけに行きたいなあ」
「ふむ、今度はどちらへ?」
「えっと、ゆうえんちでも、公園でも、おじさんのお家でもいいの。お弁当を持って」
きらきらと目を光らせる彼女のマグの中では、琥珀色の飲み物が彼女に同調するように元気にはねた。インゴは娘にはココア、私たちにはコーヒーを淹れる。
「そうですね、行きましょうか」
きゅうと目を細めてインゴが言う。
私たち家族はこうしてよく出かけた。近所の人は私たちを見かけると軽く声をかけるくらいにはその光景に慣れ親しんでいるようだった。パンとチーズ、コンビーフならあるはず。ホットサンドでも作ろうか。娘は嬉々として手伝いを申し出た。
娘…それは、確かに。私は彼女を好いて 愛している。妖精と見紛う程可愛らしい彼女は、およそ私の子とは思えなかった。私が、私たちが彼女の生を紡いだという事実に、神々しさを感じてすらいる。崇拝にも似た愛。手放しで捧げることのできる。
麻のポロシャツにデニムを穿いたインゴは片手にホットサンドのバスケットを持って、もう片方は小さなレディに取られてゆっくりと歩いた。反対の小さな手は私の手を握っている。
インゴは嵐のように突然やってきて、静かな平穏な草原を荒らすだけ荒らして、後に残ったのは一体何だったのだろう。ただそこで草を食む生き物にとっては、インゴは正しく敵だった。
「まあ、そうかもしれませんね」
「開き直らないでよ」
娘は全力でブランコをこいでいる。得意げに私たちを見ながら。私たちは木陰に座って、微笑みを返す。
「かのイエス・キリストも言ったでしょう」
汝の敵を愛せ、と
「…インゴってキリシタンだっけ」
「いえ、違いますが」
私はずっと現実を切り売りして生きてきた。だから、非現実主義者でも、ましてや夢想家でもない。
ただ、これは愛じゃない。愛なんて言葉では表されない。もう、運命じみたできごとだった。
インゴは立ち上がって、ブランコに歩み寄る。娘はぴょんと飛び降りてインゴに飛びついた。悠々と抱き上げて、戻ってくる。
嵐の後、草原には少なくとも一輪の花が咲いたのだ。今では私はそこで吹く頬を撫でる風にさえ慣れ親しんでしまっている。
「お茶にしますか、それともコーヒーを?」
インゴの真似をすれば、ソプラノが「おちゃー!」、テノールが「コーヒーを」。三人で目を見合わせて笑った。