インゴのいない生活にも大分慣れた。
そもそも元々はこれが正しかったのだ。何も間違っていない。
私はまた仲間と一緒に飲みにいくようになったし、付き合いも接待も元通り、毎晩忙しくなった。
一人になって2週間ほど経ってからインゴは手紙を送ってきた。
『ニンバサもライモンと同じように賑やかな街です。こちらは昼間には暑くなってきました。特に体調に不備もありません。仕事も変わりなく…』
私はそれを何度も読み返した。まるで暗号で書かれた密告文だ。整然と並べられた美しいインクたちに私は何らかの感情を探し出そうとした。それが土台無理なことだというのもわかっていたけれど。
それから1ヶ月後にまた同じような手紙が郵便受けに入れられて、でもやっぱり返事を出すことはなかった。実のところ何を言うべきで何を言うべきでないのか私にはわからなかったのだ。
二通目の手紙を受け取ってしばらく、私はまた仕事をして家に帰って寝るだけの生活を続けた。およそ、2週間。
その日も夜の11時に家にたどり着き、乱暴にハイヒールを投げてソファに沈み込んだ。少しだけ。化粧も落とさずに、ブラウスを来たまま、とろりとした眠気が眉間から喉の方へ流れていく。ほとんど眠りに落ちていた。けたたましい呼び鈴が鳴るまでは。
苛々して仕方ない。非常識にも程がある。そのまま無理に意識を眠りに沈めようとするが、眠るタイミングを見計らっているように呼び鈴は何度も鳴らされた。
のそりと立ち上がって、申し訳程度に襟をただし、髪を撫でつけハイヒールを揃える。ドアに向かって一言。
「どちらさまですか。ご存知だとは思いますが、今世間では夜中の11時だということを確認しておきます」
「エメット。はじめまして…じゃ、ないよね。久しぶり。インゴの弟の、エメットです」
鍵を開けた。
◇
エメットさんは愛想良く笑って、私の淹れた紅茶を口に運んだ。柔らかく微笑みながらも、鋭い眼光が私を刺しているのは勘違いではないだろう。
「酔っぱらってないキミは初めて見たよ。ええと、ナマエチャン」
「今日は飲んでいないので」
半年も前のことをよく覚えている。
「それで…今日はどういったご用件で」
「大体わかってるんデショ?」
ことりとカップを置いて、じっと私を見る。
「キミも行かなきゃ。恋人が行ってしまったんだから、もうとっくに行くべきだったんだ」
やっぱり兄弟だ、と思った。当然のことのように言い放たれた言葉に頭が痛くなる。
インゴと私は、他人だ。
「私たち、付き合ってなんかないわ…」
「そんなのは形式的なことだ」
エメットさんはにっこり、人のよさそうな笑みを浮かべる。
「ボクらは形式主義者じゃない。だって、愛してるんでしょう?」
「愛してるって、誰を?」
「インゴのこと」
「愛…?違う、これは愛じゃない。私はインゴのことを何も知らないもの」
「知らない?」
「ええ。インゴは…インゴは突然やって来て、それで突然去っていった。それだけよ」
「彼の仕事は?」
「それは…サブウェイのボスだって…でも」
「名前は?髪の色は?好きなものは?今、どこにいる?」
問いただすように言葉を重ねられて、私は何も言えなくなった。
インゴの髪は鈍く光るブロンズ、深いネイビーの瞳に薄い唇。その唇を割って出てくる言葉はいつもオンザロックの氷のように冷静で、食後には必ずコーヒーを飲む。寝酒にはウイスキーを選んだ。
そして、彼はユノヴァに…ニンバサにいる。
「キミはインゴのこと、知ってるよ。キミが思ってるよりもずっと。これ以上、何を知る必要がある?」
「…」
「愛してるんでしょ?もちろん愛してるに決まってる。インゴのこと。それに、お腹の子供さんも」
今度こそ、文字通り、何も言えなくなった。ひゅっと息を飲む音が聞こえたのか、エメットさんは少し首を傾げてにっこり、笑って見せた。ネイビーの瞳にはそれぞれ一人ずつ、目をカッと広げて驚愕の色を表情に浮かべる女が映っている。
「ど、して」
「インゴも知ってたよ。それに、楽しみにもしてる」
エメットさんはごそごそと持っていた皮の鞄に手を入れると、薄いペラペラした紙を一枚取り出した。
「キミとインゴの趣味はよく似てるよ。多分気に入る。どうしても必要なものがあったら送るといい。そうだな、あのソファ、それにキミのベッドくらいだったら、それぞれ三個ずつ持ってっても大丈夫だと思う。要らないとは思うけどね」
「あ、の、仕事…」
「どっちにしろ妊婦にその仕事はよくない。お酒もね。まあボクの意見だけど。それについては何も心配しなくていい。インゴが取り計らうよ」
「ちょっと待って、まだ…」
「ゴメンネ、ミセス。実はボクもインゴと同じ仕事をしてる。つまるところチョット急いでる。これでも所用で一週間はイッシュにいたんだよ。その間、キミが10時前に帰るコトは一度もなかった。一応毎日呼び鈴は鳴らしてたんだけどね。今日はもうギリギリ。ホテルも引き払ったし、ボクの飛行機は今日の最終便なんだ。超特急で空港まで行かないト」
エメットさんは重厚な腕時計にちら、と目をやると、ばさりとベージュのコートを羽織って鞄を持った。机の上に紙を残して立ち上がる。
「後はキミに任せる。ボクらは待ってるよ」
颯爽と玄関の戸を開く。後ろ手にそれを閉める直前、振り向いてウインクしてみせた。
「じゃあ、また」
かくしてインゴへの愛は事実になった。それを立証したのは、彼の弟だ。