ジャーナリズムの世界に限ったことじゃないと思うけれど、こと私たちライターに関しては『もう一回』は通用しない。情報は事件は依頼者は、どんな理由でも待ってはくれない。だから私がその台詞を口にするのはいつぶりか、多分年単位でご無沙汰の『もう一回』だった。
しかし私は文字通りにもう一度それを聞きたかったわけではない。一度でしっかり聞こえているのだから。つまりは、認めたくないことではあるけれど、よっぽど動揺したということである。
「ですから、国に帰ります」
「はあ?」
「何度言えばいいのですか…」
ハァ、とわざとらしいため息。国、くに、クニ?この人は何を言ってるんだ。
「国?国って、どこ」
「ユノヴァです」
「帰るって」
「もともと郷里はアチラです。これは何度か言いましたが、ワタクシはイッシュのギアステーションに研修に来ています」
「はあ」
「つい先日呼び戻されました」
「へえ」
「一緒に行きましょう」
「はあ?」
「一緒に行きましょう」
呆けた声が口をついて出た。インゴは(今までもそうだけど)ふざけてる風は全然なくて、自分は正しいみたいな顔をぴくりとも動かさずにそこにいた。
「あの、さ、私はこっちで仕事してるじゃない」
「はい」
「一緒には行けない、と思うよ」
私は自分が特別頭がおかしいとも意志が弱いとも思わない。だから頭がおかしいのはインゴだ。でも、インゴは平気な顔で、冷静に何でもしてしまうから、不安になる。狂いそうになる。
「仕事ならアチラで口をききます。見つからなければその時です」
「いや、いやいやいや…」
いくらなんでも、見知らぬ土地で宙ぶらりんで野垂れ死ぬのは、ねえ?どうなの?
「簡単にいうけど、そんなに簡単な問題でもない」
「?」
インゴは本当にわからないといったていで軽く首を傾げた。
インゴは相変わらず私の家に帰ってきたし、玄関に黒い革靴を並べて、洗面台のひげ剃りでひげを剃って、そしてコーヒーを淹れた。リビングのテーブルでは窓側の席にいつも座った。
「イッシュはいいところだと思うよ、こっちに残ればいいじゃない」
「それも考えたのですが」
ふっと目を伏せる。長い睫毛がふるりと震える。
「まがりなりにもユノヴァのサブウェイのボスですので、通りませんでした」
「え…あ、そう」
私は急に居心地が悪くなった。
酒の力を借りて契ったあの夜から、暗黙の了解が破られて堰が外されたように、どちらともなく行為に及ぶようになった。インゴは拒まなかったし、生理的な性欲を持て余したときには素直に誘ってきた。
インゴがそれに積極的なのかどうなのか、私にはわからなかった。いや、それ以外にもよくわからないことなんて私にはたくさんあるのだけれど、とにかくセックスに関して(も)インゴは少なくとも冷静だった。それを目的としていないようには見えた。
そしてこれは断言しておかなければいけないと思うけれど、私はインゴが冷静さの中でわずかながらも性的に興奮しているのを見ることを楽しんでいた。インゴにとってセックスは単なる手段だったかもしれないけれど、私にとってはインゴの人間らしさを確認できる一つの営為だった。私はインゴの冷静をある意味では受け入れて汚すべきではないと思っていたし、また他方ではどうにかして崩したいとも思っていた。
それは愛ではなかった。瞬時の気の迷いではなおさらなかった。それは、混沌と狂気から身を守ろうとする試みだった。
そうして私が投げる石は、いつだって大洋に落ちて動かなくなった。返ってくることはない。
そういうバランスの中で私とインゴは同居していた。片手には過激で俗物的な仕事、反対の手には平穏無事で何にもかき乱されることのないしんとした小市民的暮らし。それを抱えながら、よたよたと歩いていた。
初めてのセックスの後でさえ私たちは以前よりも親しく口をきく間柄にはならなかった。
狂気の芽は私の中に根をはり、私の秩序や常識、正常性を栄養にして着々と育っていた。私はなぜか、それを摘み取って外に捨てることができなかったのだ。
「とにかく、私はここで仕事をしてるのよ」
「ですから、ここを出ましょう」
その代償だ。まさかこんなことになるとは、思ってもみなかった。
私は、特にこの仕事を気に入っているわけではなかったし、やろうと思えば今の時代、どこにいたって同じように働くこともできた。後から考えてみれば意地になっていたのだと思う。大きな仕事が入っていると言って、私はインゴの意見を棄却し続けた。その度にインゴは冷静と反抗を内包した瞳で私を責めた。決まって沈黙して。インゴは何も言わなかった。沈黙は大いなる力だ。犯罪と同じように禁止する必要がある。
インゴは勝手にやってきて、勝手に居座った。だから出て行くときだって、勝手にすればいい。
私の知る限りでは、インゴはこの時が一番食い下がった。静かに、ではあるけれど。皮肉にもひどく人間らしく。感情的に。
インゴはもしかしたら、私を無理に連れて行くかもしれないと思った。
予想ははずれる。インゴはある日突然帰ってこなくなった。整髪料の匂いと干していたワイシャツだけが残っていた。
私が最後に投げた石も、結局返ってはこなかった。