「っ……!」
「How are you doin'?上司への挨拶もできない口をお持ちのようですね、ナマエ?」
「…あなたは私の上司じゃないので、インゴさん」
ドアノブに手をかけたまま静止した
いつもと同じように執務室のドアを開けた先に、いつかと同じように大変よろしい態度で上司の席を陣取るサブウェイボス、とやら
思い出したくもない、苦い記憶が掘り起こされる
禁煙だと言うのに聞かない、彫刻のような指に挟まれた葉巻が妖しく紫煙をくゆらせている
はっきりと、この人が苦手だ
人には言えないような…恥ずかしい、ことをされた、から
できるだけ近づかないように、執務室の入り口から声をかけた
「…そこ、ノボリさんの席なのでソファにかけていただけますか」
「あの後ノボリとはどうですか?一発くらいヤりましたか」
「………」
最ッ低…!!
心の中で毒づく
にやりといやらしく口角を吊り上げたその表情を視界にいれないように目を伏せた
「ソファにおかけください」
「なぜそんな所に突っ立っているのですか?入ってきたらいいでしょう」
「会話する気ありますか」
「そんなに遠くにいるとここまで声がよく聞こえないようです。入ってきなさい」
するりと耳に入り込んだ滑らかで冷たい声が、首を伝って背筋をなぞった
息が、苦しくなる
かたん
…背中でドアが軽い音を立てて、私は一歩を踏み出してしまったのだと知った
「さて、ソファに座れ、でしたか」
喉を低く鳴らして笑ったその人は組んだ足を解いて尊大に立ち上がった
「た、ばこ、煙草も、ここは禁煙です」
「おや、寒いのですか?震えているようですが」
「ちがっ、や、私、失礼します!」
「用があって来たのでしょう」
ゆっくりしていけばいいじゃないですか
…言わせてもらうなら、私が用があったのはあなたじゃないし、ここはあなたの部屋じゃない
そんな非難は飲み込んだ唾液と一緒に喉の奥に落ちていった
その人は私が背を向ける前に、その長いコンパスを存分に見せつけて私に歩み寄った
無駄に縦に長い身体と背中の扉に差し挟まれる
せめてもの抵抗に、精一杯敵意をこめてそのアイスブルーの瞳を睨みつけて胸板に腕を突っ張るけれど、身長差から私が縋っているような形になってどうにも格好がつかない
インゴさんは一層笑みを深くした
「もう折れたのかと思いましたが、まだそんな目を向けられるのですね」
「どいて、ください!」
「いいですよ」
割とあっさり離れていった身体に拍子抜けする暇もなく、ぐい、と腕を引かれる
バランスを崩した私はたやすく抱き留められて、膝をすくわれた
「や、やだ、降ろして!」
「泣いて乞ったら考えます」
ひどく楽しそう
私はそれどころじゃない、落ちても構わないという勢いで足をばたつかせて暴れるけど、がっちりと抱えられた腕の中でただ余計にみじめさをさらすだけだ
また、またあの時みたいなことをされるの
じわりと滲んだ涙を必死に抑える
泣いたらもっと喜ぶような相手だ
私を抱いたままソファに腰掛けたインゴさんは、子どもにそうするみたいにひょいと私を持ち上げた
インゴさんを膝で跨ぐような格好で降ろされる
腰に手を回されて、床に足がついていない状態ではうまく抜け出せない
「どういう、つもりですか…!」
「言わねばわかりませんか?」
つう
大きな手のひらが制服越しにお尻の曲線を這う
下着のラインを指がなぞって、そのまま太ももの内側に差し込まれた
「…こういうことをしようかと。前回は邪魔が入りましたから」
「っ調子に乗らないで!や、めてください!」
「おっと」
頬を張ろうとした手のひらはあっさりと避けられて、それどころかその手を指を絡めてぐっと握られる
「そのような物欲しげな目で見つめられてはやめてやることなどわたくしにはとても」
「っひ、ぃ」
「…触れただけで感じているのですか?」
はしたない、耳に吹き込まれれば自分が本当にはしたないような気さえして、どうしようもなく悲しくなる
「その様子ではノボリとは何もないようですね」
「っ…!」
ノボリ、さん
やだ、ノボリさんにこんなところ、見られたくない
「やめ、やめてっ離して!」
「大人しくなさい」
「あなたの言うことなんて、聞か、な」
一方の手は私の手と繋いだまま、片手が内股を微かに撫でてから体を離れていく
あまりにも妖艶に目を細められて、心臓を直に掴まれたような心地に何も言えなくなった
「あなたに一ついいことを教えて差し上げましょう」
視界の端で、離れていった手が、ぴらぴら、薄い紙を持って戻ってきたのが見えた
細かい字が整然と並んでいるそれを掴まされる
「読みなさい」
「な、に…」
「早く読みなさい」
「……『移動通知、ナマエ』…なにこれ…っどういうことですか!」
「そのままの意味ですよ」
「私、聞いてません!」
「言っていないのですから当たり前でしょう」
「な、こんな、勝手なこと、引き受けませんからっ」
「お前は字が読めないのですか?これは『移動通知』であって『移動願』ではありません。命令であってお願いではないのですよ。正式な辞令です」
「な、で、そんな、」
「わたくしが、あなたのボスです」
なんで、なんでどうして!
そんな、勝手に決められることじゃないはずなのに
ノボリさんだって、必ず守りますからって、言ってくれた、のに
薄い紙は手から抜き取られた
息がかかるほど近くに顔を引き寄せられる
「逃がしません」
絶対に
そう付け加えた唇が乱暴に私のそれに重ねられた
「んっ、ふ、ぅ」
下唇を吸って、歯列をなぞって、熱い唾液を送り込んで
肌の下から何かぞわぞわしたものが浮き上がってくる
怖い、また、こんなこと でも
舌を絡め取られて、口蓋をいたずらにくすぐられて、私の体の奥は、確かによくわからない熱を持ち始める
それを指摘するようにまた足の根元へと指を伸ばされて、素直にびくびくと震える身体
ふ、インゴさんは鼻で笑った
「ナマエ、さ、ま……、あ…」
遠くの方で扉が開く音、聞き慣れた彼の声、ばさばさ、紙の散る音
もう、戻れない
涙がころりと落ちていった
飼い鳥に首輪はいらぬ
優しく羽をもぐだけ
¶理沙様・300000hit企画「青い鳥は籠の中続編」