「結婚しましょうか」
「結婚?また急な話ですね」
開いた扉の音に、よいしょと立ち上がって玄関まで向かってみればそこには長身の男が堂々立っていた。靴はもう脱いでいる。丁寧に揃えて、私のパンプスの隣。でかい。
「こんなところで立ち話もなんですし、よかったらどうぞ」
「は、い。失礼します」
その男は大人しく、リビングの扉をくぐる私に続いた。ソファを勧めれば至極模範的な態度で腰掛けた。
「コーヒーでいいですか?まぁコーヒーしかないんですけど」
「あ、わたくしが、やります」
「そういう訳にもいかないでしょう。一応私の家ですから」
少しの皮肉をこめたつもりだった。特に返答はなくて、その男はまたしずしずとソファに沈んだ。
「それで?なんでしたっけ」
「結婚、しましょうか」
「あなたと?」
「ええ」
「私が」
「はい」
当たり前だとでも言いたげに語調を強められた。サイフォンで沸かしたコーヒーをカップに注ぐ。私と、あなたが。結婚ねえ。ああなるほど。少しかさが多い方をその男に差し出して、自分もソファに座る。私をじっと見つめて不安とも期待ともわからない灰色を浮かべるその男の瞳を一度だけ見た。あとは見ないようにした。色々な、私が思いもよらないことを考えているのかもしれないし、もしかしたら、何も考えてはいないんじゃないだろうかとも思った。この男は。だからこそ今ここでこうしている。
「いいですよ」
「は……え?」
「いいですよ」
「え?い、や」
「何回言えばいいんですか」
「あ、あ、なぜ、ですか」
「だめって言った方がよかったんですか」
おかしな人だ。男の手の中で黒い水面は小刻みな波紋を浮かべている。その震えを私が生んだのだと思うとかなり愉快だった。私は何もできない訳ではないのだ。
「そうでもしないと結婚できないでしょう、私。この部屋を盗聴してるのも通話の履歴抜いてるのもあなたなんでしょう?私と電話すると呪われるとまで言われましたよ。確実に行き遅れますからね、このままだと」
どんなにエグいことをしたのか知らないけど、怯えてましたよ。『もうかけてこないで』なんて。出会いの渇き切ったいい歳の女に容赦ないですね。
「私のこと、愛してくれるんですか」
その男は感極まったといった風に私に飛びかかった。自分のカップを置く分別は残っていたらしいけれど、それ以上のこと、例えば私を中身が出るまで押しつぶしてはいけない、とか、私もカップを持っている、とかそこまでは考えられなかったようだった。お腹から胸にかけてひどく熱い。カップは床で鋭い音を立てた。
「ナマエ、ナマエっ」
「や、けど、してないですか」
「っ……」
苦しい。背中に手を回して軽くタップすると薄い隙間が作られた。うわぁ、白いワイシャツが台無しですね。
「結婚、大いに結構ですけど、盗聴器は引き上げてくださいね。聞かれてるっていい気分はしないですし。あと鍵も、いつの間に作ったのか知らないですけど、別に部屋ぐらい上げますから」
「…カメラは」
「なおダメですよ。盗撮までしてたんですか」
「……一緒に住みましょう」
「なんか順番がおかしい気が」
あぁ、おかしいっていえば、そう。
「あなたのお名前を教えていただけますか、旦那さん」