今日はいらっしゃらないのかな
ちらりとカウンターの内側に置いてある時計に目をやる
もうそろそろお店を閉める時間だ
最後のお客様の背中も暗い街に消えていった
それからも少しだけ店を開けたままでいたけど、10分ほど待ってから扉のプレートをclosedに裏返す
約束をしたわけじゃない
決まりなんてないし、いつ来るか言葉にしたことだってない
だから、待つなんて本当はおかしな話なのだけど
…気にしてしまうのは、いつも同じ曜日、同じ時間にいらっしゃる方だから
忙しかったのかな、来週は来てくださるかな
後片付けを手早く済ませて店の電気を消す
鍵をかけて、家までの暗い道を歩き出した
ぽつり、ぽつりとある寂しい街灯が長く影を伸ばした
昼夜眩しく輝いているこの街も、夜と朝の狭間のこの短い間だけは静かな眠りにつく
こつ、こつ
靴底が硬い音を鳴らす
賑やかできらきらしたライモンも好きだけど、このしんとした透明なライモンも好き
響いた音はどこかに吸い込まれていく
こつ、こつ
「……ノボリさん?」
不意に私の靴の音に重なるように響く足音に気づいた
夜道に目を凝らせば、見慣れた黒いコートが夜の黒に溶けている
艶やかなシルバーブロンドだけが街灯に浮かび上がっていた
名前を呟けばその人は律儀にぴたりと立ち止まって振り返った
「やっぱりノボリさん、でしたね」
「っナマエ様!」
ノボリさんは目を円くして驚いた
私が駆け寄ると、ノボリさんも二、三歩こちらに歩み寄る
「今お帰りですか?」
「ええ…今日は少々トラブルがありまして遅くなりました」
「そうだったんですね、お疲れさまです」
「いえ、ナマエ様のお店にも先ほど寄ってみたのですが、もう閉められたようでしたので…」
「お店、明かりがついてたら気にせず入ってきて大丈夫ですよ」
「しかし」
「ノボリさんでしたら構いません」
やっぱり今日はお仕事が忙しかったみたいだ
時刻は午前二時半を回っていて、こんなに深夜までお勤めされていたらしいノボリさんの顔には、街灯の薄ぼんやりした明かりに照らされてうっすら疲れの色が滲んでいた
私とノボリさんはどちらともなく並んで夜道を歩き始めた
いつもは静かな帰り道に二人分の靴音のリズムと小さな話し声が浮かぶ
冷たいはずの夜風がなんとなく温かい
「…して、ナマエ様」
しばらくそうして歩いているとノボリさんが唐突に鋭く真剣な声を出した
私は改まってその表情を覗きこむ
「お帰りはいつもこの時間で?」
「はい。お店が終わるのが大体二時頃ですから」
「…ポケモンはお持ちなのですか?」
「いえ、それが、私の生活だときちんとお世話してあげられないので」
「……ご自宅はこの先に?」
「ええ。もう少し歩いた先に」
「お送りします」
「えっ」
ノボリさんは何事もなかったように、相変わらず私に合わせて並んで歩き続ける
送るって、私の家はもうしばらくは歩かなければいけない、のに、そこまでお疲れのノボリさんを連れ回せない
「ありがとうございます、ノボリさん。でも大丈夫ですよ」
「街が寝静まった深夜、女性が、一人で、暗い夜道を備えもなしに歩くことが大丈夫だと?ナマエ様、不逞の輩はどの街にもいるのですよ」
「そ、れは、でも…今までもそうしてきましたし……」
「わたくしは、ナマエ様。貴女は夜が明けてからお帰りになっているものとばかり思っておりました。貴女が自らを危険に晒しているのを放っておくことはできません」
「危険、だなんて」
「…貴女は少し純粋が過ぎる。それは美徳ではありますがいささか無防備だとも言えましょう」
ノボリさんは私を叱り諭すようにぴしゃりと強い語調で言った
その後すぐに、へにゃりと眉尻を下げて困ったように苦笑する
「…本当は、ただわたくしが心配なだけなのです。ナマエ様の仕事柄帰宅がこの時間帯になるのはいたしかたないとは存じております。それでもナマエ様に何かあったらと思うと、不安でたまりません。どうか送らせてくださいませんか」
「そんな、その、ご心配をおかけしてしまってすみません。あ、の、ノボリさんさえよろしければ、お願いします…」
実際私はこの帰り道でノボリさんの言う不逞の輩、なんかに会ったことはないし、それどころか誰かとすれ違うことだってそうそうない
それでもノボリさんは本気で心配して、本気で怒ったのだ、私のために
私は何だか申し訳ないようなこそばゆいようなぐるぐるした不思議な気持ちになってしまって、いつの間にか家の前にたどり着くまで口を開くことができなかった
「あっここです、ノボリさん」
なんの変哲もないマンションの前で立ち止まる
ノボリさんは私が黙っている間もずっと、その長いコンパスを私の歩調に合わせて歩いていた
「お疲れなのに…本当に、ありがとうございます」
「いえ、わたくしの家もすぐそこです」
「そうなんですか」
「では、わたくしは」
「っあの、ノボリさん」
「はい」
「明日のお仕事は早いんですか?」
「いえ、明日は遅番ですよ。出勤は午後からです」
「でしたら」
くるりと振り返って、ノボリさんに向き直った
マンションの駐車場の灯りがノボリさんのくっきりした目鼻の影をつくる
「よかったら何か飲んで行かれませんか?」
「っ……」
「送っていただいたお礼に、と、思ったんですけ、ど」
迷惑だったかな
よく考えたらノボリさんだって早く帰ってお休みしたいはずだ
はっと気づいて付け加える
「すみません、ご迷惑でしたら次にお店にいらした時にでも」
「…いえ、お邪魔します」
しばらく固まっていたノボリさんは、少し目を伏せて息を吐いた
◇
「どうぞ、散らかってますけど」
「いえ、失礼します」
エレベーターを降りてすぐのドアに鍵を差し込んで、開いたドアにノボリさんを招き入れた
普段は人なんて呼ばないし、寝に帰ってくるだけのような部屋だから大したおもてなしなんてできやしないけど、とりあえずリビングに案内する
「コートお預かりしますね」
「あっありがとうございます」
「掛けてゆっくりしていてください」
黒いコートを受け取ってハンガーにかける
ノボリさんはぽつんと置いてあるソファの端に腰掛けた
「かえって気を遣わせてしまってすみません、ナマエ様」
「いえ…今日はノボリさんいらっしゃらないのかなと思っていたので、会えてよかったです」
私もコートを脱いだ
リビングに続く対面式のキッチン
その戸棚からシェイカーとグラスを二脚、それにアイスペールを取り出してノボリさんが座るソファの前のローテーブルに並べる
コニャック、マイヤーズ、コアントローのボトル、レモンとスクイーザー、どんどんテーブルに出せば、小さなテーブルはすぐにいっぱいになってしまった
「ご自宅にもこんなに道具があるのですね」
「ワインやシャンパンはそれほど無いんですけどね。家でも練習したり、オリジナルを試したり…それにやっぱり好きで始めたお仕事なので、気づくと色々集めてしまって」
「わたくしも好きが高じて今の仕事をしておりますので、よくわかります」
ノボリさんのお仕事、鉄道関係なのだと最近知った
…家に模型でもあるのかな
微笑ましい気持ちでノボリさんの隣に腰掛けて、シェイカーに材料を注いでいく
ブランデーにホワイトラムにホワイトキュラソー、レモンをティースプーン一杯
「ノボリさん、シェイクしてみませんか?」
「は、」
ストレーナーとトップをかぶせたシェイカーを、じっと私の手元を見ていたノボリさんに差し出してみる
ノボリさんはぽかんと私を見返した
「お店ではできませんし、よかったら」
「は、い。しかし、やり方が」
「持ち方は、こう…人差し指と小指で。そうです。できるだけ熱が伝わらないような持ち方であれば適当で構いません」
ノボリさんの長い指は、難なく私が示した持ち方をしてみせた
シェイカーはノボリさんの大きい手のひらの中で居心地よさげに振る舞っている
「それで、10回くらい振っていただければ」
「こうですか?」
いつも私がしているように、ノボリさんはシェイカーをリズムよく振った
かしゅ、かしゅ、氷がぶつかり合う音
ワイシャツとスラックス、きっちりしたオールバックのノボリさんに、この所作は、想像以上にしっくりと馴染んでいる
「はい。すごく上手です」
「照れ、ますね」
「最後はトップを外して、グラスに注いでくださいね」
ストレーナーから出てきた黄金色の液体がグラスを満たす
ノボリさんは嬉しそうに、少しだけ頬を緩ませた
「ありがとうございます。いただいていいですか?」
「はい、では」
「乾杯」
軽くグラスを掲げて口に運ぶ
お店ではあまり出すことのないこのカクテルは、寝る前の私の楽しみの一つでもある
ふわりと広がるブランデーとラムのふくよかな香り、それに三つのお酒がしっかりなめらかに混ざり合っていて、うん、おいしい
「おいしいです、ノボリさん」
「いえ、わたくしの方こそ」
「少し強いですから飲みすぎはよくないですけどね」
寝る前にあまり飲み過ぎると眠りが浅くなってしまっていけない
でもこのお酒のような、ナイトキャップ 寝酒は、適量なら疲れを癒やして気持ちよく寝かせてくれる
「このカクテルは…」
「名前ですか?ビトウィン・ザ・シーツです」
「ぐっ」
「大丈夫ですか?!」
グラスを傾けたノボリさんが急に喉を鳴らして苦しげに咳き込んだ
慌ててグラスを置いて、ノボリさんのグラスも抜き取って、背中をさする
んんっと咳払いして「…大丈夫です」というノボリさんは、あまり大丈夫そうではないけれど
涙目がなぜか非難するように私を見やる
ノボリさんは私の手のグラスを取り返してぐいと煽った
「…ナマエ様」
「はい」
「わたくしの、思う所が、どうもわかっていただけていないようですが」
「え、と?」
「わたくしとて、男です。…卑しいことも考えます」
「あ、でも、ノボリさん、は」
「ナマエ様の前では努めて、紳士でいようと、しているのです。ですからどうか、」
みるみるうちに耳から頬から首までノボリさんは真っ赤に染まっていく
空のグラスをテーブルに置いて、未だに背中に留まっていた私の腕を掴んで、ゆっくりと引く
「…どうか、このような隙を、見せられませんよう。わたくし、以外には」
▲ビトウィン・ザ・シーツ
ブランデー、ホワイトラム、ホワイトキュラソーを同量とレモンを少量氷と一緒にシェイクする。
…『シーツの間で』というセクシーな名前のカクテル。ナイトキャップカクテルだが度数は高く飲み過ぎは禁物。