裏切りだ、と小さく呟いてみたらその言葉は思った以上に軽くて薄っぺらかった。中身を伴わない言葉。ぺらっぺらの紙みたい。ずっと誰にも見せないようにうまく隠してきたボクの心の柔らかい部分はしかし、そのただただ軽薄な言葉に深い傷を与えられた、らしい。ひどく切れ味のいい紙だったのだ。
まぶたとまぶたを近づけて、頬の筋肉をちょっと動かして、口の端っこを持ち上げて。お得意のはずの笑顔は頭で考えれば考えるほどどうにもうまくいかない。これで大丈夫かな。うん、大丈夫。
「あ、それでですね、インゴさんってお魚嫌いだったんですね」
「フライなら食べるんじゃない?ローフィッシュは文化じゃナイよー」
「焼き魚だったんです…全部食べてはくれたんですけど、ちょっと嫌々って感じだったので。エメットさんは嫌いですか?」
「ボク?…は、どうかな。インゴはああ見えてベジタリアンだよ。肉も食べるけどネ」
「やっぱりそうですよね!いつもサラダから手をつけるんですよ」
曖昧に返事をする。君は本心からボクが魚が好きか嫌いかなんてどうでもイイコト、気になった訳じゃないんだよね。すっぱりと鋭利に切られた傷はずきずきと痛んで、一言話しかけられる度に溢れるように血が流れる。どろどろ。
ナマエは執務室でインゴの帰りを待っている。お弁当を持って。ボクは執務室で呼び出しを待っている。少しの期待を持って何度も何度もインカムに手を伸ばすけど、小さな機械はひたすらに沈黙を保っている。
飛び出したい。二人きりのこの部屋を。そんなことできるはずがない。ナマエがすぐそこにいる。近づきたい。逃げたい。その柔らかい髪の毛に、滑らかな頬に、温かい手に触れたい。
ボクは公然とこの部屋を後にしなければならない理由が欲しかった。何よりも自分のために。
「もうすぐ戻ってくると思うから、インゴ」
「あっはい!」
元はと言えば全部ボクのものだったその赤い頬も濡れた熱い視線も今ではキミは全部インゴにあげている。おまけに、幸せそうな笑顔も。裏切りだ。なんて言葉に足る資格を、ボクは持ってはいないのだ。
いやだ。やめて。インゴなんかにあげないで。
全部ちょうだいって、ボクが先に言ったとしたらキミはボクにくれたの?キミがその熱い視線を言葉にしてくれたなら、ボクはいつだってキミのものになったのに。全部あげたのに。
何を責めてもキミはもうボクには何も与えてくれない。インゴがトレインから戻ってきた。花が咲いたように笑ってお弁当を差し出すナマエ。幸せそうに目を細めて受け取るインゴ。みんな幸せ。「好き嫌いしてるんだって?インゴ?お子サマ〜」「あっエメットさんっい、言わないで」「ハン?愛しい女性の作るものを残した記憶はありませんが」「〜〜っはやく!食べてくださいね!では!」「どこへ行くのですか」優しいナマエ。頼れるインゴ。お似合いの二人。
部屋には温かい幸せの匂いがたちこめていた。ただボクが流した血と思いは、この部屋に居場所も行き場もない。ひっそりと霧散して、なかったことになるだろう。それだけがすこし悲しい。
ほうかいりんき
他人の恋を恨み妬むこと。