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「とにかく一番強い酒を出して!」


  こんな注文が一番私を困らせる

例えばの話、世界で一番強いお酒を出すならばポーランドの蒸留酒、スピリタスだ
度数は96度、あまりにも有名になってしまったこのお酒は時々名指しで注文があるのでお店にも置いている
二番目はアイルランドのポチューンと言われている
これも蒸留酒で度数は90度…珍しいこのボトルはここにはない
そしてブルガリアのバルカン・ウォッカ、88度

とにかく強いと言われれば思いつくのはこれくらいだ

そしてこの注文をされるお客様というのは大抵、こういった強いお酒を飲むのにふさわしくない…身体の健康も心の健康も

「お食事はお済みですか?」
「何も食べたくない…」
「大分お飲みですね」

真っ赤な頬は泣きはらしただけのものではないだろう
そっと差し出した水は見向きもされないで汗をかいている

「もうイヤ…忘れたいの」
「…強いお酒で忘れる、というのは難しいかもしれません」
「どうして?」
「お酒は思い出をよく溶かすんです」
「…?」
「強いお酒は特に。お酒は辛い思い出を一時は溶かして見えなくしてくれますが、貴女自身が消化できない思い出は、お酒と一緒に身体の中に入っていっていつまでも貴女の中に残ります。お酒だけが消化されてなくなって、思い出はゆっくり身体中を巡って蝕む」
「……」
「…バーのカウンターが厚いのは、重い荷物を置いていくためだそうですよ。わざわざまた持って帰るより、ここに置いていってしまいませんか?」

グラスの水滴を拭き取って冷たい水をもう一度差し出せば、今度は両手で受け取った彼女は、右目から大きな雫がころりと落ちたのを皮きりにぼろぼろと静かに涙をこぼし始めた

「うっ、うー…」

蒸したタオルをカウンターに置いて、スーズの褐色のボトルとトニック、それにソーダを取り出す
スーズは薬草のリキュールで、リンドウの苦味とバニラの香りの甘味が特徴のフランスのお酒だ
氷を満たしたタンブラーに、スーズとトニック、それに炭酸でフルアップする
タオルの隣にグラスを置いた

「よろしければ。スーズトニックです」
「スーズ…?ジントニックじゃなくて?」
「ええ、スーズというリンドウのリキュールを使ってみました。ジンより軽いですし甘味もあっておいしいですよ」
「ありがとう…」

タオルで赤くなった目元をそっと拭いて、お客様はグラスを手に取った
もともと弱いカクテルをさらにソーダで割ったので、アルコールはほとんどあってないようなものだ

「…うん、さっぱりしておいしい」
「ピカソやダリも落ち込んだときにはこのリキュール…スーズをいつも飲んだそうです」
「そうなんだ…」

お客様はもう一口、グラスを傾けて、力なく笑った

「今日ね、ひどくフられたの。憧れの人だったから一生懸命会いに行ったのに全然、相手にもされなかった感じ」
「…そうだったんですね」
「かっこよかったなぁ…」

思いが届くこともなかったのだとしたら、辛いし悔しいことだろう
わかったような適当な相槌なんて打てない
私はただ黙ってお客様の話に耳を傾けた

毎日お勤め先に通っても会うことすらままならない男性だったらしい
彼に見合うように、隣に立てるようにとしてきた努力は報われなかった、と

「酔ってくだまく嫌な客ね、私」
「そんなことはないですよ」
「付き合ってくれてありがとう…また飲みに来る」
  ちょっといいかしら」

高い声が、立ち上がるお客様を制した

二つ空けて隣に座ってスマートにグラスを傾けていたその方は、このお店の常連さんだ
彼女は立ったまま止まっているお客様に視線をやって、美しく微笑んだ

「っか、カミツレさん…?」
「ええ…お忍びなの。このお店に迷惑かけたくないから、秘密にしてくれる?」
「は、はい!」

口の前に細い指を立てる仕草、その一つでも彼女は人を魅了する

「スーズ…リンドウのリキュールって言ったわね。貴女リンドウの花言葉、知ってる?」
「いえ…」
「じゃあ調べてみるといいわ、きっと元気になるから。それとね、」
「はい」
「貴女ならもっといい人に会えるわ。努力する女の子が一番キラキラしてるから」
「っはい!」
「引き止めてごめんなさいね」
「いえっありがとうございますカミツレさん!」

お客様は入ってきた時とは正反対の晴れ晴れした表情で店を後にした
少しでも心が軽くなったならよかった


「聞き耳はバーのご法度だったわね」
「いえ、カミツレさんのおかげで元気になられたようでしたから、よかったです」
「『お酒は思い出をよく溶かす』だったかしら?意外とロマンチストなのね」
「…からかうのはよしてください」
「それで?バーのカウンターが厚いのは?」
「銃弾を防ぐため、という説が有力だそうですよ。禁酒法の時代の名残ですね」
「貴女のそういうとこ、嫌いじゃないわよ」
「ありがとうございます」

チェイサーのお水をカウンターに置く
カミツレさんはそれに少し口をつけた

「『あなたの悲しみに寄り添う』…スーズの意味だって言えばよかったのに、あの子、知らなかったじゃない」
「おいしくお酒を楽しんで頂ければそれでいいんです。私の仕事の半分は自己満足ですから」
「そういうものかしら」
「そういうものですよ」

ふふ、と小さく笑って、カミツレさんはチェックを済ませた

「また来るわ」
「お待ちしております」



〜閑話〜

○スーズ・トニック
氷を入れたタンブラーにスーズを適量注ぎ、トニックでフルアップする。
…スーズはフランスの芸術家たちに愛された薬草のリキュール。トニックの爽やかな風味とバランスのいい甘味、苦味が魅力的なカクテル。5度前後と弱い。

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