「いらっしゃいませ」
驚いて思わずカウンターの内側に置いてある時計を見てしまった
こんなに開店して間もない時間に来ることなんてまずない方だったからだ
「ジントニックでも」
「珍しいですね、インゴさん」
「何がです。時間?注文?」
「…いえ、どちらも」
「そういうモノでしょう。この時間から一杯目にウイスキーを飲むものでないコトくらいは心得ていますよ」
「失礼しました。まだお食事をされていないんですね」
「エエ」
時間や手間や順番、あまりそういうことを気にしない人だと思っていた
…失礼なので口には出さなかったけれど
インゴさんはジャケットを脱いでカウンター席にかけた
かっちりした細身のベスト
仕事帰りにまっすぐ来たのだろうか
タンカレーとトニックを取り出す
カットしたライムを絞って、氷とジンをグラスに、それからトニックウォーターでフルアップ
シンプルで手軽なレシピだけど、さっぱりとして元気の出るお酒だ
「ココの定休日は…」
「日曜日です」
「そうですか」
脈絡なく聞いて、インゴさんはぐいとグラスを煽った
「今日は仕事が早く片付いたのでそのままココに」
「そうだったんですね、お疲れ様です」
インゴさんは本当に少しお疲れのようだった
また静かにグラスを傾ける
仕事で何かあったのかな
一人でバーに来るお客様は大抵なにか重い荷物を抱えている
「…トニックウォーターって、もともとは薬だったんですよ」
「熱病の、ネ」
「ご存知でしたか、今使ったトニックは薬効とされた成分は入っていないんですが、さっぱりとした苦味でおいしいですよね」
「…言いたいコトはなんとなくわかります。ワタクシの出身はウノヴァですよ」
ハァ、と大きく息をついて、でもインゴさんは少しだけ楽しそうに口角を上げた
「たまには悪くないですね、こういう酒も」
薬効と言われた成分をなくしてなおトニックが昔からのその名前で呼ばれ続けるのは、それがまだ薬だからだと私は思う
強い苦味、芯のあるスッキリした味わいは飲んだ人を“tonic” 元気づけてくれる
いつもの調子を取り戻したらしいインゴさんは飲みきったグラスをカウンターにことりと置いた
金糸の髪をかきあげて口を開く
「…今日ココに来たのは、ナマエに依頼があるからです」
「い、依頼?」
「頼まれていただけますか」
「…私にできることなら、」
「ナマエにしかできない」
インゴさんは胸元から名刺のような小さい紙と明かりに照らされて上品に光る万年筆を取り出した
「二週間後、日曜日、」
整然とした規律ある美しい文字が白い紙の上に次々と現れる
「ナマエを1日借りたい」
インゴさんは名刺を私に差し出した
裏には日付、時間、建物の名前が書いてある
まだインクは乾いていないのに、その文字列はもとから当然そこにいたように礼儀正しく振る舞っている
表はインゴさんの名前と、電話番号
「接待パーティーのようなモノです…聞いたところどうやら先方は大層酒が好きなようで」
胸ポケットに万年筆を戻しながらインゴさんは思い出したようにうっとうしげな顔をした
「いい気なモノですよ、準備は全てコチラが持つのですから。…どうせならワタクシの好きなようにやると決めました」
「それで…」
「コーナーバーをナマエに」
会場の一角にお酒を出す専用のスペースを設けるのだろう
そこを、私に?
「頭の固い重役の接待も、ナマエがいれば耐えられそうなのですが」
「…今、すぐにお返事は」
「エエ、わかっています。都合もあるでしょうし返答はさほど急ぎません」
私が手に持っている名刺にインゴさんは視線をやった
「心が決まりましたらその電話番号に。プライベートのモノですから夜中でも繋がります」
期待のこもった碧い一対の瞳が私を射抜く
「お待ちしておりますよ」
★ジン・トニック
ライムを絞ったタンブラーに氷とドライジンを入れ、冷えたトニックウォーターを注ぎカットライムを飾る。
…シンプルで手軽なレシピで飽きのこないカクテル。作り手によってレシピの改変や個性を出しやすく、バーでの初めの一杯として好まれる。