久々に全力を出せたスーパーシングルでの一戦は、大変に満足のいくものでした。ここ最近の疲れを充足が押しのけて、わたくしはここが職場の廊下でなければスキップの一つでも始めるような軽やかな足取りで執務室に戻りました。
開けた扉の先にクダリの姿はなく、おそらくダブルにでも乗っているのでしょう。自分の席に腰掛けて一息つく。
…と、ふと、隣のクダリの席のモニタが目につきました。またあの子はつけっぱなしで離れて。毎度口を酸っぱくして咎めても懲りないのだから。
煌々と光るディスプレイをスリープモードに切り替えようと画面をのぞき込むとしかし、おかしなことに気がつきました。どうやらバトルビデオのワンシーンで停止しているようなのです。それも、シングルの。
確かにお互いにシングルもダブルもバトルビデオを見ることはありますが、流したまま放っておけば勝手に終わるものをわざわざ止めて出かけるでしょうか。よっぽど結末の気になるバトルだったのか。
よくよく画面を見てみる。何の変哲もない駅員と女性のバトル、14戦目のようですね。未だ呼び出しが無いということは挑戦者の女性は途中下車されたのでしょう。
カーキ色の帽子、白のワンピース。…はて、この帽子、どこかで見覚えがありますね。それに女性のポケモンはヘルガー…イッシュでは珍しい。よく鍛えられたポケモンのようです。
何か違和感が、何でしょう、この方…
はっと思い出す。クダリと一緒に何度も何度もみた監視カメラの映像を。そこに映るグリーンの髪の青年を。そして、カーキ色の帽子を。
女性が被るのは正しくその帽子です。そして偶然にしては出来すぎた相棒。 クダリもそのことに気づいたのでしょう。
慌てて執務室を出ようと振り返って初めて、ソファの上にぞんざいに捨て置かれた白い脱け殻たちを見つけました。やはり…!
◇
「シビルドン、ほうでん!」
「よけなさいヘルガー、かみくだく」
激しい電撃のほとんどを素早くかわしたヘルガーはシビルドンの喉元に跳躍して躊躇なくかぶりついた。鋭い牙が食い込んでシビルドンが低いうなり声をあげる。
「シビルドン!」
手を振りかざせば正しく意味を理解したシビルドンが体を大きくしならせ、しがみついたままのヘルガーを反動をつけてポールに叩きつけた。すかさずに繰り出した電撃がポールを伝って今度は全てヘルガーに直撃する。
「立ちなさい」
ちょっと見には大した消耗は感じられないほど俊敏にヘルガーは立ち上がった。でも、体力は残りわずかのはず。
この人、強いなぁ。状況をわきまえない僕の心臓がどきどきを速くする。ダブルトレインに乗ればいいのに。そうすればきっと僕のところまで勝ち抜いて、もっと楽しいバトルができる。
けれどこの人は僕と同じようにはバトルを楽しんでいない。
「ヘルガー」
ちらりと振り返ったヘルガーと目を合わせて、男の人は抑揚のない声で命令した。
「かえんほうしゃ」
僕のシビルドンだったらまだ落ちないだろう。こちらの大ダメージを覚悟の上でシビルドンに回避でなく反撃の指示をしようと開いた口に、突然耐え難い熱気が滑り込んだ。喉が灼ける。おかしい。咳き込んだ僕をシビルドンが振り返るのがスローモーションのように僕の目に入ってきた。その光景もぐにゃりと歪んでゆらゆら揺らめく。視界が赤くなる。
「っヘルガー!行って!」
ナマエの声が轟音の向こう側、遠くの方で聞こえる。目の奥がつんと痛くなってしまって、僕は耐えきれず涙をこぼしながら目を閉じた。視界が真っ暗になる直前に、黒い体が僕の前に飛び出してきたのが見えた。僕は熱さと痛みにその場に膝から崩れ落ちて咽せた。
「クダリさん!クダリさん!!」
泣きそうなナマエの声。いや、泣いてるのかな。大丈夫、と形づくった口は音を伴わなかった。
◇
私のヘルガーはクダリさんに放たれた炎をすんでのところで受け止めて吸い上げた。特性もらいび。クダリさんはその場に膝をついて、苦しそうに眉間にしわを寄せて咳き込んだ。直撃は免れたけれど熱気を直に吸い込んでしまったのだ。
普段から激しいバトルの中に身を置くクダリさんだけど、明確に、自分だけを狙って悪意ある攻撃をされることなんてそうそうないだろう。しかも今はシングルバトルで、ポケモンを一匹しか出していない。クダリさんのフィールドとは言い難い。そしてアポロのヘルガーは見たところおそらく素早さが最高値の個体だ。
クダリさんは、ヘルガーがわざわざシビルドンをさけてクダリさんに向かってかえんほうしゃを放ったのをよけきれなかった。反応できるはずもない。
「クダリさん!クダリさん!!」
クダリさんに駆け寄る。クダリさんは口をぱくぱくと動かすけれど、そこからはかすれた呻きが漏れるだけだった。声が出ないんだ!どうしよう、水を、水を!
「っノボリボス!聞こえますか?!」
『その声はやはりナマエですか!あなた、どうして』
「後で詳しく説明します、水を、水を持ってきてください…!」
『水?』
「クダリさん、っが」
『シングルトレインですね』
クダリさんのインカムの電源を入れて、襟元に顔を近づけて叫ぶ。悲鳴めいた声だったのをノボリボスは理解してくれたらしい。ぷつりと通信が切られた。
「クダリさん、っすみません…私の、せいで」
クダリさんは目を閉じたままふるふると首を横に振って、私の手をぎゅっと握った。
私のせいだ。私が馬鹿みたいに怯えるばっかりで、何もできなかった…いや、しなかったから。だから、クダリさんが痛い思いをしている。私は何よりそれを恐れていたはずなのに。
私の過去の話は、私自身がけりをつけなければいけない。怖くても。これからを自分の足で歩いていくために。
その間も二匹のヘルガーは激しくぶつかりあっていた。
私はクダリさんの手を離して、その前に立ち上がった。
「お話は終わりましたか?」
アポロが微笑んでヘルガーを自分の脇に戻した。私のヘルガーも私の元に戻ってきて、相手を威嚇している。
「…アポロ、私はアポロと一緒には行かない」
「ナマエの意見は聞いていません」
「私は私の考えで生きるの!ヘルガー、ふいうち!」
「よけ、」
アポロが言い終わらないうちに私のヘルガーは相手の目の前に現れて一撃をくらわせた。相手もすかさず体勢を整える。
「かみくだく」
「ヘルガー、わるだくみ!」
首に食らいつく相手を振り払ってヘルガーは特攻を高めた。多分アポロのヘルガーも特性はもらいびだろう。クダリさんのシビルドンが削った分こちらが大分有利だけど油断はできない。
「ヘルガー、もう一度わるだくみ」
相手は振り払われてもひらりと軽やかに身を翻して再び私のヘルガーに牙をたてた。今度は簡単には振りほどけないほど深く噛みつかれているようだ。悲痛に鳴くヘルガーの特攻はもう十分に高まっている。相手が自ら近くにいるのを逆手に取るんだ。
「戻りなさい、ヘルガー!」
アポロは気づいたのかヘルガーを呼び戻す。けど、もう遅い。
「あくのはどう!」
ヘルガーを中心に四方に放射状に繰り出された波動は、もちろん相手を取り逃がさずにしっかり捉えた。
相手のヘルガーがその場に目を回して倒れた。
こんなにアンフェアでハンデのあるバトルってない。
でも、それでも私はアポロのヘルガーに、アポロに勝ったんだ。アポロに。
アポロが黙ってボールにヘルガーをしまった。
「このヘルガーの子供なんですがね、その子は。負けました」
「子供だっていつか大人になるよ」
「…私は」
トレインが減速を始める。私たちはライモンに戻っていた。アポロは迷って言葉を選んでいるように見える。
「私は、ナマエ。あなたと家族になりたかった。ずっと、多分」
アポロは微笑んでいなかった。眉間に皺を寄せて、口を引き結んでいる。
「…アポロのこと、家族だと思ったことなんてなかったよ。だって私は、家族が何なのか教えてもらったこと一度もない」
絵本の中の幸せな、ときどきいがみあったりして、それでも最後には仲良く暮らしていく大人と子供が家族なら、私はそれを知らない。
「これからもそうなることはない」
喉が震えるのを必死に抑えていた。アポロを恐れる気持ちが簡単に消えた訳じゃない。でも私が言わなきゃいけない。私のために、クダリさんのために…アポロのために。
「私もう、アポロに依存してないよ。私にはもう大切な人も仲間もいるもの。アポロのこといたずらに怖れたりしない。私は私の望む場所で生きていく。
…ねえ、依存してるのは私じゃない。アポロだよ」
アポロはしばらくぴくりとも動かないまま空を見ていた。そして、いつもの微笑みを浮かべた。
「不自由はさせませんよ。ここで働くよりずっと好待遇でしょうに。故郷に戻りたくありませんか?」
「だから行かないって…!」
「…はぁ、振られてしまいましたね」
窓から明かりが入ってくる。電車はゆっくりホームに滑り込んだ。
「ナマエ、愛していました」
「……うん」
ぷしゅー、扉が開く。「クダリ!!」ホーム中に響くような大声が聞こえた。遠くの方から七両目のドアに駆け寄ってきたノボリボスが車両に向かってペットボトルを投げた。え、投げた。振りかぶって、結構な勢いで。
「…ん、さんきゅ、のぼり」
いつの間にか立ち上がっていたクダリさんは、ドアの前で飛び込んできたペットボトルをキャッチしてぐい、とあおった。いつもより低い、ちょっと掠れた声。
「そろそろおいとまします。どうやら犬を連れてきてくださったようですから」
アポロはクロバットを繰り出した。逃げるためにバトルには出さなかったんだろう。
アポロがぱちん、と指を鳴らした瞬間、突然ホーム側とは逆のドアが吹き飛ぶ。嘘、耐バトル用の強化金属なのに…!
「あーあー派手に壊しちゃってさー」
「本当はもう少し大きな花火を用意する予定だったんですが」
「アポロ!早くしてください!」
ドアの外にはクロバットに掴まるランス。アポロは大破したドアの跡に手をかけた。
「あーきみ」
「…何ですか?手短に」
クダリさんは少し足を引きずっている。…火傷かな。どうしようもなく悲しい気持ちになってうつむく私の肩をクダリさんはいきなりぎゅっと抱き寄せた。
「ナマエは、僕がもらうね」
アポロは一瞬だけ動きを止めた。目をまるくしている。私もきっと負けず劣らず目を見開いている。力強く掴まれた肩が温かい。
「…ナマエ、何かあったらいつでも帰ってきなさい。待っていますから」
今度こそアポロは線路に飛び出した。
二人と二匹の影は線路の先に消えていく。「追いなさい!」ノボリボスが叫んでいる。ジュンサーさんが車両に乗り込んできた。腰が抜けてしまった私を支えるクダリさんは、優しい笑顔を私に向けていた。