ナマエがいなくなって五日経った。ジュンサーさんも手がかりを未だつかめていないらしく、色いい電話はかかってこない。
ナマエが就職する前は秘書なんていたことなかったから、僕らの仕事といえば実質以前に戻っただけと言っていい。(ナマエが来て新しく始めたことなんかは他の課で分担してくれてる。)それでも僕の仕事は遅々として進まなかった。
ノボリが気を遣って僕の分までいくらか片付けてくれてるけど、いつまでもノボリに頼るわけにはいかない。こめかみをぐっと押さえ込んでペンを走らせる。
僕があの日カナワに着いた時には、ナマエはカナワにはいなかった。どの建物にも。町の人に聞いてみても、ナマエを見た人は誰もいない。
ナマエは本当にカナワにいたのか?後からカナワの駅の監視カメラの録画でわかったことだけど、ナマエは確かにあの駅には来ている。ナマエとカメラの間に映り込んでくるあの緑の男の向こう側に、確かにナマエの濃灰の制服が見え隠れしている。
ライモンのような大きな街ではどこで何をするにも人目につくから、カナワを中継地点にでも使ったんだろう。中継地点に使って…今はどこに?
僕はナマエの詳しい事情なんかをジュンサーさんに説明しなかった。余計に面倒な事態になるのを避けたかったし、なにより僕はナマエのそういう部分を僕ら以外にあまり知られたくないと思った。
…言うべきだったのかな。ナマエだけを狙って何も要求してこない犯人の態度を見るに、ナマエのあの父親が関係しているというのは僕とノボリで一致した見解でもある。
犯人は(もしナマエを連れて行ったのがそいつだとするなら、)ナマエをいたずらに殺したりはしない。そうするもっといいタイミングはそいつにはたくさんあったのだし、逃げるのにナマエぐらいの大きさの人間を連れるデメリットを犯人はおかしている。ナマエに利用価値、そうでなければ情があるからだ。
ナマエは大丈夫。戻ってくる。…自分に言い聞かせる。
毎晩仕事が終わった後の夜の街にナマエを捜しに出ているけど、これも何の成果もない。大体暗い街なんて人捜しには最悪だ。
明日は有休を取れたから昼間に出かけられる。僕が捜して見つかるくらいなら苦労はないけれど、それでも僕は体を動かさずにはいられなかった。
『ノボリボス、スーパーシングルに挑戦者です。現在41勝』
「了解しました」
ナマエじゃない声が挑戦者の勝利を告げる。ノボリはコートを羽織って扉に手をかけた。
「いってらっしゃい」
「はい」
挑戦者はノボリのとこまでたどり着くだろう。モニタに流れるバトルビデオを見ると、ノボリと勝率五分五分の常連さんだった。最近ノボリに無理させてるから、いい気分転換になるといいな。
そうしてしばらく薄い紙の上でペンを滑らせていると、また通信が入る。
『ノボリボス、シングルに挑戦者です。現在14勝』
「…ノボリインカム切ってるんじゃない?今バトル中」
『あっ』インカムの向こうでバトルの確認でもしてるのか、しばしの間の後、『すみませんでした。スーパーシングルが終わり次第連絡します』通信は切れた。
僕らの体は一つしかないからこういうことは、まあ無いわけではない。挑戦者にはその場で僕らを待つか後で挑戦するか選んでもらう。
僕は何の気なしに転送されたシングルのバトルビデオを見た。そもそも20連勝しなければノボリが急いで行く必要はないのだ。
再生。挑戦者と職員が同時にボールを投げる。それぞれのポケモンが飛び出す 僕は弾かれたように立ち上がった。
あまりに突然だったので自分でも驚いたほどだ。頭で考えるより先に体が勝手に動く。…行かなきゃ!
「ねえ、そのシングル、僕が乗るよ」
『えっいいんですか?』
「大丈夫。ノボリには後で言っとく」
『は、はあ』
ノボリの予備のコート、帽子、スラックス、靴、全部借りて自分のはソファに脱ぎ散らかして、僕はシングルトレインに急いだ。「今何連勝?」『19です』無人の最終車両に飛び乗った。
前の車両との扉をじっと見つめる。早く。早く!
『挑戦者現在20連勝です』
扉の磨り硝子に影が映る。
ぷしゅー、扉が開いた。 やっぱり、
「〜〜〜っ」
「ノボリボスっ…あれ、クダリボス…?」
「ナマエっ!!」
「ぅわっ!ぼ、ぼす?!なんでシングルに…」
「バカバカバカナマエ!心配した!どこ行ってたの!ケガは!ひどいことされなかった?!なんで直接来ないの!なんでダブルじゃなくてシングルなの!!」
「ちょっ、と待ってください、ボス!言いますから、」
「シングルなのは、三匹しかポケモンを持ってないからです。それにバトルできるのは一匹だけなので、」ナマエを離して椅子に座らせるとナマエは俯いてまずそう言った。そういえばそうだった。
ナマエは制服のスーツじゃなく白いワンピースを着ていた。被っているカーキの帽子はどことなく、あの緑の男のものに似ている、気がする。
「…突然空けてしまってすみませんでした」
「ナマエが連れて行かれたのは知ってる。ごめんはいらないよ」
「ボス、私…どうすれば…あの、」
「うん」
「クダリさん…逃げてください…」
「えっ?」
◇
カナワを出る時、アポロとランスはそれぞれクロバットを出した。アポロは私を片手で抱えて、片手でクロバットにつかまった。「もっとしっかりつかまっていないと落ちてしまいますよ」それならそれでいいのに。アポロは私を抱える手の指を痛いほどくいこませて、「クロバット」二匹のクロバットは浮上する。そこまで大型のポケモンじゃないのに二人も連れて大丈夫だろうか。私の危惧をよそにクロバットは存外力強く羽ばたいた。
降りたのは見たことのない、仄暗い街だった。薄いもやが立ちこめている。
「ブラックシティです。初めてですか?」
「うん…」
「話は通してあります」
地上に高くそびえるビルの地下に、私たちは降りた。質素な階段の先の質素な扉を開けると、中は予想に反して広く、絢爛な調度が品よく並べられている。
「しばらくはここに滞在します。カナワのようなことがあればまた次も用意していますが」
「…私、何も持ってきてない」
「必要なものがあれば何でも買ってきますよ。ランスが」
「使いっぱしりですか」
「私の荷物は…」
「本当に必要なものがあるのなら私が取りに行きましょう。必要かどうかは私が判断します」
…ライブキャスターもトレーナーカードも、財布も着替えもアポロの眼鏡にはかなわないだろう。アポロはわざわざ人が張っているかもしれないような場所に行くリスクをおかしたりしない。
「しかし当座の生活に困らないくらいのものはここに揃っていると思いますよ。そう言いつけましたから」
言いながらアポロは私の肩に手を回して優しく押した。リビングスペースを横切って、彫刻の施された扉を押し開ける。
「ナマエの寝室です。慣れないと思いますが短い間ですから」
…一人で寝るには、このベッドは広すぎる、と思う。私は幼い日々を過ごしたあの家の、一人ぼっちの寝室を思い出した。必要以上に広いベッドは孤独な海なのに。
私は特に不平もなにも述べなかった。ベッドの上にはいくつもの紙袋がぞんざいに重ねられていて、確かに当面の生活の準備はあるようだった。
「水回りはあちらに。困ったことがあったら何でも言っていいですよ」
「何でも?」
「ええ」
「…帰して、私を」
「おかしなことを言う子ですね」
アポロはにっこり微笑んで、「今日は疲れたでしょうからゆっくり休むといい」寝室の扉を閉めた。
奇妙な生活は終始そんなようだった。用意された服なんて着るつもりはなかったのに、シャワーを浴びている間に制服は回収された。鍵をかけたのに。意味がないならはじめから鍵なんてつけないで欲しい。私はみじめな気持ちでワンピースに袖を通した。
見かけた掃除婦のような人に話しかけたけれど、まるで私がいないように、目も合わせてもらえなかった。私と話してはいけないとことづけられているらしい。
アポロとの食卓は人数が一人多いだけで昔とおんなじ風だった。懐かしい気持ちになったり感傷に浸ったりすることはない。
私がほとんど食事に手をつけないのを、ランスは苛立ち、アポロは慈しんでさえいるようだった。「…毒など盛っていませんよ」「突然のことでナマエも動揺しているのでしょう。ランスの言うとおり悪いものは入れてませんから、食べられるものだけ食べなさい」食べられないんじゃない、食べたくないのだ。
このとき私は初めてアポロの『仲間』について知った。アポロが三年前からその仲間のトップだということも。アポロはやっぱり上品にフォークを口に運んで、悠然と話す。近々大きなプロジェクトが動き出すのに、私に研究チームの指揮をとってほしいということだった。
私がアポロに協力的かどうかは別にして、どちらにしろ私にそんな大それたことができるとは思わなかった。「それは過小評価ですよ」アポロは私の返事が聞きたいわけではない。
アポロは『組織』の目的を言わなかった。それでも、だからこそ、それはきっとよくないことなんだろう。『善悪の判断などとのたまううちは、まだまだ子供ですよ』アポロの言うことは私には少し難しい。どうあれ私はアポロに力を貸すつもりはない。私はアポロを……憎んでいる。
ポケモンたちだけが心の支えだった。呼ばれる以外は私はポケモンたちとずっと寝室にこもっていた。時々ノックがあって、私は黙って部屋を出る。時計も窓もなかったので、食事が定刻に出ていることを信じる以外は時間を知る方法はなかった。
「―だから――だと!」
「――いえ、ナマエの―ですから――」
14回目の食事の後、寝室で座り込んでいた私に言い争いの声が聞こえてきた。ランスとアポロだ。ずっと静かだったのに。何かあったのかと扉に耳を近づける。
「危険です!そこまでする意味がない!」
「静かに。危険は重々承知の上です。しかし、娘が世話になったようですから挨拶くらいはしておきたいのです」
「それは、」
「ナマエも最後の挨拶は盛大にしたいと思いますよ。大丈夫です。狙いを二人に絞ります。 おあつらえむきに電車なんて逃げ場のない場所でバトルをするようですから」
「…私は賛成しかねます」
会話はそこで途切れた。ドアを離れる。
ノボリさんと、クダリさんのことだ。狙いを二人に。嘘。私以外に危害を与えないって言ったのに。大人しくしてようが関係ないんじゃない。二人が、危ない。私のせいで。私がいたから!
急いでボールにポケモンをしまう。ホルダーにセットして、扉を薄く開けた。隙間からリビングを伺う。…ランスはいない。シャワーでも浴びに行ったんだろう。アポロは、腕を組んでソファに座ってる。頭を垂れて、何もない絨毯の端に視線をやっている。
私はドアの隙間から身をかがめてリビングに出た。アポロは顔を上げなかった。よく見ればまぶたを下ろしている。寝室のドアを閉めて、体を小さくしたまま玄関へ駆けた。それでもアポロは顔を上げない。
私は、鍵を開けて玄関を飛び出した。その間際に玄関に置いてあった帽子を掴んで、目深に被る。無いよりはましだろう。長い階段を駆け上がった。
◇
「ここは、危ないんです…私のせいで、だから、クダリさ、にっ言わ、なきゃって」
「うん…ナマエ、がんばったね」
走ってライモンまで戻ってきたというナマエの体を抱き寄せる。ナマエは小さいポケモンみたいに小刻みに震えていた。
「ゆっくり話すのに、トレインの方が安全だと思って…騒ぎになると、周りの人たちも巻き込まれるかもしれない、ので、」
「…そうだね」
「次の食事の時間になればバレます…だから、その前に、」
ナマエの選択は、もしかしたら間違っていたかもしれない。僕はノボリの帽子をナマエの頭に置いて、コートをナマエの肩にかけて立ち上がった。ネクタイをきゅっと締め直す。「クダリさん…?」僕を見上げるナマエの頭をぽんと撫でた。
「…どうぞ、お客様」
扉が開いた。