都会の喧騒とは離れたこの町には木々を揺らす静かな風が吹いていた。壮観な車両庫が訪れた人を出迎える。ゆっくりと時間が刻まれる町。
ここには何度かクダリさんに連れて来てもらったことがある。クダリさんとノボリさんの生まれ故郷なんだそうだ。『穏やかでいい町でしょ』誇らしげに言うクダリさん。できればこんな形でここに来たくなんてなかった。
ゆっくりと橋を歩いていると、後ろから声をかけられる。「あの、奥から二軒目です」コテージを借りているらしい。黙って従って歩く。
『着いたら黙って駅の外に向かいなさい』
目深に帽子を被りながらランスは言った。減速する電車。『…ボール、返して』『あのねえ、あなたバカですか?』それきり会話はなかった。電車はホームに滑り込む。ぽつぽつと降りる乗客、それに続く私、何歩か後ろをついてくるランス。
そうして私たちはランスに言われた建物にたどり着いた。
ドアの前に立ち尽くす私に覆い被さるようにして、ランスは後ろから手を伸ばした。ドアノブに手をかけて、がちゃり、待って、待って!
「 おかえりなさい、ランス。それに、ナマエ」
何もかも性急にものごとが進んでいた。ちっとも心の準備をする余裕なんて与えられなかったから、私は何年かぶりに目の前に立つ透き通るようなブルーのその人と再会して、何一つ気の利いたことは口に出せなかった。
アポロはアポロで私がここにいるのが当たり前のように微笑んでそれ以上は表情を動かさなかった。朝に家を出た子供が、夕方に帰ってきたのを出迎えるみたいな挨拶だった。
「突っ立っているのもなんです。入ってきたらどうですか」
アポロがそう言って踵をかえすと、ランスが私の背中をぐいぐい押した。
コテージは外見通り中もこぢんまりとしていて、キッチンと一緒になった部屋がひとつだけ。部屋中にコーヒーの匂いが広がっている。アポロは二つ向かい合わせに置いてあるソファを指差した。
「座っていてください。そろそろ来ると思っていたのですぐ準備できますよ」
私もランスも何の準備かは聞かなかった。アポロは座らずにキッチンに立つ。立ち止まるとランスが遠慮なく背中を押すので、私はソファの一つを選んで端に腰掛けた。ランスは私のすぐ隣に座った。
「あっち行って。ボール返して」
「そんな口が聞ける立場ですか。もう忘れたんですか?」
周りの目がなくなるとランスは堂々と私に刃物を向けた。ナイフと呼ぶには少し小ぶりなそれは、それでも、迷いのない人が持てば正しく凶器だ。刃先を突き立てられた私の喉はぐっとくぐもった変な音を出して鳴いた後、壊れたおもちゃのようにしんと沈黙した。
「ランス」
金属が薄い皮を舐めるのを止めたのは、金属よりもっと鋭い声だった。ランスは刃の背中で軽く私の顎を引っ掻いた後、渋々それをしまって、帽子を取った。
「手荒な真似はよしなさいと言ったでしょう」
「生意気なのがいけないんですよ」
「お前のそういうところが幼いと言っているんです」
アポロは三つのティーセットをトレイに載せて持ってきた。確かに準備は整っていたらしかった。ソファに挟まれたローテーブルにひとつひとつ丁寧に置いていく。コテージの備品なのか、感じのいい装飾の華奢な陶器だ。「砂糖とミルクはいりますか?」「…いらない」再会して初めての会話。アポロは私の向かいのソファに座って、じっと私を見て問うた。アポロが淹れたコーヒーなんていらない。そこまで見透かしたような視線。決まりが悪い。アポロはきゅうと目を細めてカップを口に運んだ。
「私のボール、返して」
悲しくなんてないのに、声は震えて涙さえ出てきた。強くなければと思うのに、そう思えば思うほどどうしてか心が情けなく痙攣した。アポロがそうさせる。私はこの男との再会に、見た目より自分が思っているよりしっかり動揺しているのだ。
「まだ言いますか」
「いいじゃないですか」
「えっ」
「返してやりなさい」
ランスがわかりやすく苛立ちを見せたのを、アポロが制した。 どういうこと。アポロは目でランスを促して、ランスはあからさまにいやいや上着に手を突っ込んだ。そして最後の抵抗か、私に直接手渡さずにボールをテーブルに置いた。
私はランスがボールを置くのと同時にそれに飛びかかった。三つとも全て手に収めて、ソファから飛び退く。や、いなや入ってきた扉に向かって駆け出した。
「こっ、の!だからこうなると!!」
「ナマエ。待ちなさい」
「私もうアポロのこと、待ったりしない!」
「ナマエ」
刃物を振りかぶったランスも、ドアノブに手を伸ばした私も、瞬間ぴたりと動きを止めた。アポロの言葉は凪いだ湖面に投げる小さな石のようだった。波紋は段々恐ろしいほど大きくなって、私のところまでたどり着く。
しばらく時間が止まってから私ははっと我にかえってドアノブに手をかけた。
「もっと頭を使いなさい、ナマエ」
「っ子供扱いしないで」
「痛い目を見るのが自分ではないかもしれないと想像できませんか」
「っ…!」
「孤児院、スクール…そうですね、ギアステーションはなかなかいい施設でした。流石ナマエが選んだだけある」
「…やめて。お願い、アポロ」
「ナマエ」
アポロはそれ以上何も言わない。好きにしなさいという口ぶりで、その実私に選択肢なんて与えはしない。
私はゆっくり、ソファまで戻った。あと一歩まで来るとランスがじれったそうに乱暴に私の手首を引いて、私はお尻を打ちつけるようにソファに逆戻りした。ぎちぎちと締め付けられる手首が痛い。
「縛っておけばいいんですよ!!」
「やめなさい、ランス。痛がっているでしょう」
「どうして!」
「目に見える縄は私の好みではありません」
「……」
ランスは手の力を抜いた。黙ってコーヒーを口に運ぶその表情は呆れているようだった。
「さて、ナマエ。バタバタしてしまいましたが、久しぶりですね」
「……」
「ナマエが出かけてからどれだけ経ったか覚えていますか?」
「…さあ」
「六年です。正確には六年と四カ月。大きくなりましたね、ナマエ」
「…アポロは全然変わってないみたい」
「ふふ」
素直な感想だった。六年の年月はアポロに老いを与えるには短すぎたらしい。私が知っているそのままのアポロが、少し昔よりは小さく見えるけれど(私の背が伸びたのだ)、知っている表情で笑った。
「つもる話もあるのですが、まずは。私のデルビルをよくしてくれたようですね」
「!」
「取り上げるつもりはありませんよ。そのヘルガーはナマエのポケモンです。大切に育ててくれて嬉しいですよ」
ホルダーにセットしたボールの一つがかたかた揺れた。怒っているのか喜んでいるのか、とにかく興奮したヘルガーのボールを軽く撫でる。
アポロはその様子を微笑ましいという風に見ていた。足をゆっくりと組んで、口を開く。
「私が一人で話すのもいいですが…折角ですしナマエの質問に答えましょう。何か聞きたいことがあるようですしね」
『アポロは私のなに?』
私はあの時のあの質問を思い出した。アポロに何か尋ねるのを、私は少し怖いと思った。でも、今の私はあの時の無力な私とは違う。
「どうしてここに来たの。なんで、今さら、私を連れて来るの」
「一つずつ答えましょうか。察していることでしょうがイッシュにはナマエを迎えにきたのです」
アポロは全く動じることもなく、悠々と言葉を紡ぐ。
「なぜ今さら、でしたか?そうですね。何なら私はナマエが出て行ったその日にでもあなたを連れ戻すことはできました。それから今まで、いつだって迎えの準備はできていたのです。しかしそうしなかった。言われたのですよ。ナマエが自分の意志と行動で出て行ったならば行かせてやればいいと」
「…誰に?」
「ナマエの知らない方です。私のただ一人の上司ですよ。可愛い子には旅をさせよ、ということでしょうね…あの方のご子息も旅に出られていたようですし。それで私は口も手も出さずにあなたを陰から見守っていたのです。どうですか、冒険は楽しかったですか?」
「……」
『あの方』というのがアポロの言う『よりどころ』なのだと、私はなんとなくわかってしまった。この短い話の間でさえ、アポロは今までぴくりとも揺らがなかった表情をうっとりと変えた。心酔している。寒気がする。
「なぜ今か、という意味なら、今ナマエの力が必要になったからです。それに私もそろそろナマエに会いたいと思っていましたし」
「必要って、どういうこと?」
「それはまた追々話しましょう。以前私はあなたに『仲間』だと言いましたね。『仲間』として組織に必要だということです」
「で、も」
「ナマエは仲間として受け入れますよ。あなたは裏切り者ではありません。…あなたの両親のような」
「っ!」
「ナマエは成長するため旅に出ていただけですからね。 ナマエの帰る場所はここにはない。私です」
寒気がする。やめて。やめて!
「力なんて貸さない!私もう子供じゃない、善悪の判断くらいつくの!」
「善悪の判断などとのたまううちはまだまだ子供ですよ。それにナマエは優しい子ですから、すぐに協力したくなるはずです」
アポロはカップを傾けて立ち上がった。ランスがそれを目で追う。
「時間のようです。お話はまた後でしましょう」
「…つけられましたか?」
「違うでしょう。あそこはどうも鼻の利く犬を飼っているようで」
「大体あの街、人目が多すぎるんですよ」
チッと舌打ちしながらランスがてきぱきと私の手を着けていないカップまで片付ける。私はただそれを茫然と眺めた。どういうこと?仲間。協力。連れて帰る。私を?ジョウトに?
「さ、ナマエも行きましょう」
アポロは跪いてひどく優しく私の手を取った。指先が氷のように冷たい。
「…ジョウトに?」
「用事もありますしまだイッシュに残ります。心配しなくても、最後に職場に挨拶くらいはさせてあげますよ」
◇
管制室で二時間前の監視カメラの映像を解析してわかったこと。
ナマエが庶務課に行く途中で誰かと何か話して、そのままカナワのホームに向かったこと。カメラの解像度が低くてよくわからなかったけど、何かを、おそらくインカムを受け渡してもいる。相手は帽子を深く被っていて俯瞰の位置からでは細かい特徴まで見えない。でも多分、庶務課の子が言っていた奴で間違いない。ちらちらと緑の髪の毛が映っているから。緑はしばらくぶらぶらした後カナワのホームに降りた。
「カナワだ」
「この時間は丁度本日六番目の電車の発車時刻です。まず間違いありませんね」
「ノボリ」
「ええ」
僕はその場から駆け出した。ノボリは黙って僕を見送る。
変な汗が額から吹き出る。嫌な予感がどんどん膨らむ。破裂する前に、ナマエの無事を確認しなくちゃ。僕は地上への階段を二段とばしで駆け上がって、アーケオスのボールを投げた。
「カナワまでお願い、急いで!」
カナワまで電車で行かないのは無粋、なんて言ってる場合じゃない。アーケオスは僕の気迫を察してか、超特急でカナワに向かった。