「あーナマエー庶務課の子が呼んでたよ」
「クダリボス、ありがとうございます。わかりました」
すれ違いざまボスから間延びした声で告げられる。これからバトルなのか、ボスは機嫌よく廊下の先に歩いて行った。
庶務課の先輩は、要領の悪い私に親身になって仕事を教えてくれた、素敵なひとだ。時々お菓子をおすそわけしてもらったりもする。先輩の手作りのマドレーヌは一口でめいっぱい幸せになれるくらいおいしい。
呼ばれるようなこと、何かしたかな。普段はこちらから書類を提出に行くことはあっても、呼ばれることはそうそうない。まして私を名指しなんて。
…期限の切れた書類があるのかも。今朝確認した時点ではなかったはずなんだけど。必死に思い出そうとしてみても、思い当たることはなかった。うーん。
頭を抱えたまま扉を開ける。庶務課に行くには一度ホームに出た方が近道だ。放射状に延びる線路を軸にして作られたこの複雑な建物の構造を、やっとのこと覚えたのはつい最近の話。どうにも大きい建物は苦手だ。それまではどこに行くにも地図を片手に持っていくのでクダリボスに笑われていたから、私も大分成長したと思う。
ギアステーションで働くひとたちは、みんな無防備に優しくて温かくて、私はそれが少し怖かった。道に迷えば手を差し出して、仕事につまれば手を貸してくれる。そのやじるしはいつだって一方的で、誰も私からのやじるしを求めたりしなかった。
私がここで何をしたのか、みんな知らないだけなのだ。優しさに馴れてはいけない。いつ与えられなくなるのか、怯えて暮らすのは、つらいから。
そればかりか知っているはずのノボリボスでさえ私を受け入れようとしてくれる。クダリボスに至ってはあのことがなかったように私を扱った。…クダリボスの役に立ちたくてここに来た私の目的は、今少しでも果たせているだろうか。わからない。私にできるのは、ただ一生懸命働くことだけだ。
「わっ、ぷ」
ホームの階段を上って職員の通用口に足を向けた瞬間、どん、と柔らかい壁にぶつかった。向こうは走って来たらしく、結構な勢いで後ろに突き飛ばされたのを、ぶつかったその人が腰と肩を支えてくれた。考え事をしながら歩いていたのがよくなかった。はっと気づいて、慌てて取り繕って頭を下げる。
「申し訳ございません、お客様。どこかお怪我はございませんか?」
「いえ…」
ぞわり
刃物の切っ先みたいな、温度のない、鋭い声音。
この人は、きっと強い。どのトレインに乗るのだろうか。ボスまでたどり着くかもしれない。なんとなくだけど、そう思った。
「本当に申し訳ございませんでした」
そう言って軽く胸を押して、未だに腰に回された腕を暗に解いてもらおうとする。けれど、同じだけの力でまた腰を引き寄せられた。
「無線機を切りなさい」
こつこつ、硬質な音。胸ポケットに入れたボスとの連絡手段のインカムの本体を、目の前の男は二回ノックした。 小さな、本物の刃物の刃先で。
身体が強張る。私と男の間のわずかな隙間に突き立てられたそれは男の手に収まるほどの大きさだけれど、それでもぎらぎらと貪欲に瞬く重い質感の金属は、大きさに関わらずその役目を果たすだろう。
「早く。切ったら寄越しなさい」
ふるふると情けなく震えだした指先で胸ポケットから出した本体のボタンをぱちりと押し込める。それは私が手渡す前に奪うように引き取られた。
「カナワタウン方面の電車に。誰かと話そうとしたならどちらも無事ではないと思ってください」
冷たい水が背筋にひとすじ流されたようにぞわぞわと寒気がする。腰に回されていた手はするりと解かれて、肩をとん、と押された。頭が真っ白になる。こういうとき、どう対処すればいいんだっけ。不審者。確保?ポケモン?腰のボールに手を回す。バトル要員ではないけれど、いつも連れている三匹。刃物と人間では、ポケモンには勝てない。
「…二度とそのような動きを見せないことですね」
呆れたように男は言った。腰に伸ばした私の手がボールに届くことはない。
…三つのボールは男の手の中で遊ばれていた。
「っ返して!」
「がなるな、うるさい。無事に返して欲しければ言われた通りになさい。素直に従えばあなた以外に危害を与えるつもりはありません」
私のボールを、男は上着の中にしまう。男は壁に背をもたれた。…私は、カナワ行きのホームに足を向けた。
『まもなくカナワタウン方面発車いたします。閉まるドアにご注意ください 』
ぷしゅー、という空気の抜けるような音、閉まりかけたドアの隙間からするりと滑り込むように男は電車に乗り込んだ。既に座席に座っていた私の前に立ち止まり、深く被った帽子の下から視線を寄越して、顎で隣の車両の方を指してまた歩き出す。
昼間のカナワ方面はほとんど利用する人がいないから、車両によっては誰も乗っていないなんてこともある。男はそういう車両に私を誘導したらしかった。
立ち上がって後をついて行くと、二つ先の車両にはその男だけがぽつんと座っていた。ドアのすぐ隣の座席に、腕を組んで。私は一人分くらいの隙間を開けて横に座った。
「…返して」
「何か他に言うことはないんですか」
はぁ、とわざとらしいため息をひとつこぼして男は帽子を取り払った。そこで初めて私は、この男の顔をまじまじと見る。
エメラルドグリーンの髪は無骨な電車の蛍光灯に照らされてつやめいている。切れ長の目の奥には黒々とした瞳がおさまっていた。
「お久しぶりですね、ナマエお嬢様?」
「?!」
不意に男の口が自分の名前を紡いだことに目を見開く。
「だ、誰…」
「おや、忘れてしまったのですか」
「知らない、私、知りません」
「これはひどい」
くつくつと喉を鳴らす笑い方が耳につく。
私は、知らない。
「私のおかげで生きてこられたのではないですか」
「知りません…人違いです!」
「 私が仕込んだだけあって、なかなかの腕でしたよ。あなたの盗みは」
時間が止まる。
さらさらと砂が落ちるように、頭の中の温度が下がる。
この人は いま なんて言った?
「三年も離れていたようですから今はどうかわかりませんが、ね」
「あ…ぁ」
「お役に立てて光栄ですよ、お嬢様」
扉を閉めて鍵をかけていた、あの家での記憶がぶわりと溢れて思考を占拠する。二人きりの食卓、ひとりぼっちの寝室、絵本…それに、時々の来訪者。
「ら、んす」
「ええ。改めて、お久しぶりですね」
「どうして、ここが…」
「大人が、子供ひとりの居場所を突き止められないと本気でそう思っているのですか」
ランス。ランス、何度もあの家にやってきた。スリの方法は、ランスに教わったものだった。狙いやすい人の見つけ方。相手との位置どり。バレないような口のききかた。幼い私に、何度も、丁寧に教えた。
「船に乗ってカントーの港町に。ナナシマに、シンオウ、そしてイッシュですか。冒険は楽しかったですか?」
「っなんで、しってるの」
「自分が一時でも自由だったなどと図に乗らないように。特にナマエ、アポロはあなたにご執心ですから」
「まかり間違っても逃げ切れるなどと思わないことですね」
ランス、楽しそう。くちぶえでも吹きそうに機嫌よく、目を細める。
「どうして来た、の…ううん、今さらなんで…どうして今まで来なかったの」
「さあ、私はあなたを迎えに来ただけですから。アポロに直接聞いたらどうですか」
この電車がカナワにつくまで止まることはない。がたがたと揺られながら、私には黙って待つことしかできなかった。
◇
「あ、ノボリ。ナマエ見なかった?」
「いえ、見ていませんよ。呼び出せばいいでしょう」
「インカム繋がらない」
小型のマイクに向かって何度か話しかけたノボリは「…そうですね」不思議そうに首を傾げた。
「電波が悪いのでしょうか。最後に見たのは?」
「二時間くらい前だと思う」
「…おかしいですね」
ふむ、ノボリはナマエの机の横にかけられた荷物に目をやった。帰ったわけでもないらしい。そもそもナマエは僕らに無断で仕事を放棄するような子じゃない。
「…医務室では?」
「具合悪いのかな…ちょっと行ってくる」
「ええ、お願いします」
今では書類やバトルの管理もすっかりナマエに任せてしまっているから、彼女が二時間いないだけで結構な職務が滞っていた。
そしてそれ以上に、個人的にナマエが心配だった。気にかかってどうにも集中できない。胸騒ぎがする。…よくないことでなければいいけど。
立ち上がって扉を開けると、向こう側からもちょうど扉を開けようとしていたらしい。「うわっ」悲鳴と女の子が飛び込んできた。一瞬ナマエかと思ったけど、抱き留めたその子は、あの庶務課の子だった。
「あっ!きみ!」
「は、はい」
「ナマエどこに行った?」
「えっ?」
きょとんとした顔で僕を見返す。
「ここにいないんですか?」
「庶務課に行ったきり帰って来てない」
「行ったきりって、ナマエは来てませんよ」
それで来たんです、とその子は言う。
「どういうこと?」
「いえ、ナマエを出してくれっていうお客様がいらっしゃったので呼んだんですけど、いつの間にかそのお客様、いなくなっちゃってて。ナマエが来たら伝えようと思ってたんですが、一向に来ないので伝えに来たんです」
「誰、そのお客様って」
「旧友っておっしゃってましたけど…たまたまイッシュを通ったから折角だし顔を見てから帰りたいと」
「…ノボリ」
「ええ」
僕はノボリと目を合わせた。「どんな見た目だった?その人」「グリーンの髪の青年でした…細かくは、ちょっと…」「ありがとう」嫌な予感はいつだってよく当たる。最悪の想定をしながら僕はノボリと二人、管制室に急いだ。