言わせていただくなら、とにかくわたくしはナマエという少女についてかなりいい気はしませんでした。
あの子はわたくしたちの職場、いわば聖域で犯罪を働いたばかりか、あまつさえクダリの支持を得ていました。それがわたくしには理解できませんでした。同情に目が眩んでいるのだと、何度クダリを諭したかわかりません。そうであってはならないと、公正にものごとを測るべきだと…わたくしはクダリではなく半ばわたくし自身に言い聞かせていました。
わたくしが真にあの子を長い間受け入れられなかったのが、いかにも非論理的な、馬鹿馬鹿しい理由だったからです。 わたくしはその幼い少女をひどく恐れていたのです。
「シャンデラ、」呼べば手のひらにすり寄る温かい身体。ポケモンは嘘をつきません。本質的に人間に従順で素直な生き物です。
…あの子が嘘をついていないのは、決して心底から悪党でないのは、明白でした。同情をさっぱり取り除いてあの子の行いを度が過ぎるほど厳しい眼鏡を通して鑑みたとしても、天秤は悪性と汚穢に一切振れることはなく無垢と無知に傾くのです。
わたくしは何も知らないこの娘が何より恐ろしかった。
きっとナマエはわたくしが本来見ることすらなかったであろう世界を、わたくしの世界に持ち込んで繋げるのだ。それがわたくしの望まない世界であったとしてもお構いなしに。あの子が嘘をついていなかったからこそ、わたくしはあの現実味のない殺人犯の話を必要以上に恐れて遠ざけようとするのでしょう。
そしてこれは全くロジカルでない、感情的な、根拠のない予感でした。…いずれナマエが背負う過去が、地の中でひっそりと生き続け来たる日を待つ地雷のように、わたくしたちの目の前で爆発するのではないか。
「ノボリボス」
「はい」
視線を上げればグレーの制服に身を包んだナマエがクリップボードをわたくしに差し出しました。思うにこの制服は全くこの子に似合っておりません。「サインをお願いします」押し込めたように落ち着けた声も、どうにも背伸びをした幼子のようでどことなく微笑ましい。正しく服に着られている。
あの面接の時から、ナマエのこのわたくしに対するある種の緊張感は、ぴんと張る糸の質を幾分柔らかいものに変えることはあれど緩むことはありません。
クダリは面接には本当に口を出しませんでした。出席すらしなかったのです。
人事部や委員会は、おそらくですが、この時既にほとんどナマエを雇うつもりでいました。これ以上この件に関して話し合いの場を持つことは、余計な仕事を増やすという意味で彼らにとっても苛立たしいことでしたでしょうし、クダリが提出したレポートがクダリが考えている以上に効果があったからです。ナマエのポケモン学についての見識を、彼らは素直に正しく評価しておりました。
「入ってください」
「はい」
予定の時間になり一人が入室を促すと、扉の外から返事が返ってくる。わたくしを含め五人が横並びに座る目の前に一つぽつりと置かれた椅子。ものものしい雰囲気の部屋に入ってきたナマエは、「失礼します」案外堂々と歩を進めた。
「座っていいよ」
「はい」
クダリに着せられたのだろうか、ナマエはきっちりした堅苦しいスーツに潜り込んでいる。彼女はゆっくりと座って、正面を向いた。
「まずは自己紹介を」
淡々と面接は進行する。無難な質問、模範的な答え。質問はもう少し細かな、知識に関するものに移っていく。
なるほど実際のやり取りで、ナマエのその造詣の深さは確かに明らかになった。人事も委員も感心を隠さなかった。「ほう、その計算式は独自のものですか?」「いえ、従来のダメージ計算に、性格補正といくつかの固定数、それに挙動パターン補正を組み合わせてできるだけ正確な値に近づけたものです。誤差はおおよそ8パーセント以内に抑えられます」「なるほど…自身のバトル経験は?」「レベルフラットでのバトルの経験はほとんどありません。ポケモンは、一体です」「では一度テストバトルをする必要がありますね…」
話はほとんど彼女を採用するていで進んでいるようでさえありました。
微妙な能力差が勝敗を大きく左右するレベルフラットのバトルサブウェイでは、ジャッジしかり、とりわけポケモンの能力について明るい人材がお客様によりよいバトルを効率的に楽しんで頂くためにも必要不可欠でした。ナマエが欲しい。それがサブウェイという機関の本音でした。
それでもわたくしは、かわいそうなこの子を雇うことに賛成する気にはどうにもなれませんでした。クダリには申し訳ないですが、それが最善だとわたくしは固く信じていたのです。
「ノボリボスから質問は」
「え、あ…はい」
はっとする。もう面接は終盤らしい。ナマエはその深い色をたたえた瞳をじっとわたくしにとめた。咄嗟に口を開く。
「 貴女は、どうして、ここでなければならないのですか」
しまった、と思った。あんまり意地の悪い聞き方だ。もっと言い方があるだろうに。隣に座る面接官の一人も怪訝な顔でわたくしをちらりと見た。流れを読まない、おかしな、厳しい質問だと思っているのでしょう。
しかし、これは確かにわたくしが聞きたかったことなのだ。クダリがナマエに執着するのと同じだけ、ナマエはここに就職することにこだわっているようでした。そうまでして貴女はここに来て、どうするのですか。どうしたいのですか。
口から出ていった言葉を拾って元に戻すことはできない。わたくしはただナマエの返答を待ちました。
「私は…」
一度長いまばたきをして、ナマエはわたくしとしっかり視線を絡める。わたくしはなぜか目をそらしたくてたまらなくなりました。
「私にとってこの場所が、今では何より大切な場所だからです」
「 時間ですね」
時計を確認した面接官が無機質に告げ、ナマエは退室を促されました。
「いい人材じゃないですか」
誰かがぽつりと言ったのを皮切りに、それに続くように口々に賛同の声があがる。わたくしは黙って、机の上に組んだ手の親指の爪をぼうっと眺めていました。
「採用されると思いますよ」
わたくしの言葉にぱっと振り向いた顔にははっきりと安堵の色が浮かんでいて、それもなぜかわたくしをどことなく苛立たせました。
「確定ではありませんが。あの分なら恐らくは」
「そっかぁー…」
はぁ、ため息をついて大きく伸びをする。机の隅に追いやられた書類は珍しくもう全て片づいているようで、面接の結果を聞くためにわざわざわたくしが戻ってくるまで執務室に残っていたのでしょう。クダリは立ち上がって給湯室に入っていきました。
「おつかれ」
「あなたも。今日はもう上がりでしょう」
「そうだね」
すぐに戻ってきたクダリの両手にはマグが二つ。黒い水面がちゃぷんと揺れた。受け取って、ソファに沈む。
「よかった。ナマエ」
「…そうですね」
「でも、ノボリは納得してないんだね」
向かいのソファに腰掛け、クダリは眉尻を下げて首を傾げた。
「そうですね」
「どうして?ナマエ、だめだった?」
「出来すぎた人材ですよ。間違いなく役に立ってくれるでしょう」
「僕が聞きたいのはサブウェイの意見じゃない。ノボリの意見」
存外真剣な声音に、わたくしも居住まいをただしてかけ直した。膝の上にマグを乗せると、じんわりと温かさが染みていく。
「…クダリの切り替えが早すぎるのです。わたくしにとっては、あの子はまだただの非常識な子供です」
「切り替え、かぁ」
「わたくしには、心底あの子を許すということが、どうしても難い」
「僕は許すよ」
その返事はあまりにも早かった。わたくしの言葉がしっかりと地につく前に、クダリの言葉はするりと滑り込みました。
「僕にはナマエの犯した罪を全部許す権利なんてない。でも、それでも、僕はあの子を許すよ。誰があの子を責めても」
「…どうして、そこまで」
「ナマエが責められたがってるから」
「はぁ?」
「責められて、罪悪感を与えられて、償うのを許されるのがナマエにとって一番楽で簡単だから。だから僕は許すよ。あの子に必要なのは、罪の意識でも責任でも贖罪でもない。許される苦しみを知ることだ」
それも、僕にね。クダリは笑って付け足した。幼い頃から、クダリの考えていることの全てが理解できないことはよくあった。わたくしがおかしいのか、クダリがズレているのか。とにかくこのときもわたくしはクダリの言っていることがよくわからなかった。『絶対に許さない』ナマエを捕まえたあの時と同じ顔で、『僕は許すよ』クダリは簡単に言ってのけた。
ただわたくしにわかったのは、あの時も今もクダリはナマエを苦しめようとしていること、そしてあの時と違って今は、クダリはナマエを、わたくしが予想していたよりずっと、ひどく大切に思っていることだけだった。それにクダリ自身が気づいているかどうかは別にして。
◇
「はい、書きましたよ」
「ありがとうございます。経理に通してきます」
クリップボードを受け取ったナマエはかつかつとわたくしから遠ざかる。
ナマエが廊下の角の先に消えると、入れ違うようにしてクダリがやってきた。
「ナマエ、もう慣れたみたいだね」
「そうですね」
「ノボリもね」
「そう、ですね」